雪の日に白きもの売る店の中をただよひゆきて失速の感

『白暁』富小路禎子

変わった歌だなと思う。以下にこうした作品が続く連作「白」である。

白き服着て来しことの深き悔白布満ちたる店の中二階
白布売場に閉店の後一人ゐし無援の痛みを抱く如し
鉄扉の内にあけの光を知らぬもの白布を巻きて人形立てり
後向きに白きけものが佇ちてゐつそれのみにしてありふれし露地
植物がひそかに持てる白骨をあばき見る夜か花野菜盛る

白い布ばかり扱う売場だという。雪の日という設定でそもそも白く覆われた外界から、「鉄扉」を開くとふたたび白い世界が現れる。なおかつこの人も白い服を着ていて、想像するだけでもまぶしい。鉄道の座席でしばしば体感するように、人間が速度を測るうえで核となる知覚は、車窓を境とした車内と車外との見た目のズレの大小である。体に感じる加速度にもいくらか補完されながら、速度という単位は、多く視覚のズレやブレの大きさに置き換えて知覚される。このひとは今、売場にいるから商品を見ながら歩き回るけれども、白い服を着た人と、白い売場との間には視覚的なズレがあまり生じていない。そのため、歩いているスピードが徐々にわからなくなってゆっくりと世界に混ぜ込まれていくように、「失速の感」を受けている。

内側も外側もないクラインの壺という図案があるが、そうしたどちらとも判別のつけがたい感じ、「鉄扉」の外も内もなく風景が互いの手をとって繋がっている状況がなんとなく見えている。「失速の感」や「深き悔」、「無援の痛み」はこの人のものだけでない。白に包まれた売場で氷まで抱いてしまえば何重にもマトリョーシカの状態になるわけだが、いくら閉店の後に「一人」であっても、それはどこか、途方もない大きな風景を抱えているのと同じことのように見える。

こうして心の内部を覗き込むことと反対に、見えている風景、「ありふれし露地」もまた、単にどこにでもありがちで既視感や見覚えがあるという意味にとどまらず、どの人の心にもある露地だと読み替えるべきだろう。『白暁』には猫とか白狐とか呼ばれる魅力的な「けもの」がしばしば登場し、この人の傍らにぴったりと寄り添っているが、この「けもの」は誰の心にも住む幻獣だと読み替えられる。植物が持っている「白骨」はもちろん、私の中にあるものと同じものだ。こういう分け隔てのなさをどうとらえるかはなんとも言い難いけれど、もちろんけものの背にめいっぱい顔を埋めたっていいのだけれど、前回書いた「自然のなりゆき」というか、見えている空間にあまりにもたれかかりたくなって頬が熱くなる。『白暁』に私が高揚を感じるのはそこなのだと思う。

玻璃の棚身内にあらばさびしからん見えながら互に臓区切られて

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