久永草太『命の部首』
イヤホンには有線と無線があって、少し前までは無線一択だったようだが、今はまた有線イヤホンが盛り返してきているという。この歌のイヤホンも有線のほうのイヤホンである。かばんかポケットかどこからかイヤホンのコードが伸びて耳につながっている。そのコードを伝って音が上がってくるのだから、伝う時間だけたしかに音は遅れて耳にやってくる、ような気がする。ちょっと科学的なことにうといので口ごもりつつ言うほかにないのだけれど、イヤホンのコードのかぼそさを思うときそこを通る音の分量もちょっとずつになり、そのぶん遅延も大きいのではないかと、これはおそらく間違いだがそう感じる。
ストローを液体がのぼるように、液体化した椎名林檎の叫びがコードの細さをのぼっていく。これも実際に音がコードをのぼっていくのか科学的なことはわからないのでおずおずと言うのだけれど、歌から受ける印象としては声が声の身を歪ませながら細いコードをのぼっていく感じが強くする。コードをのぼっている最中の椎名林檎の叫びは誰にも届くことなくその身を変形させながら、それでも叫びつづけているだろう。イヤホンの耳につながる出口に達してはじめて、その叫びは人に伝えられる。「遅延」のぶんだけ、声は身をよじらせて暗く細いコードのなかをさまよう。「遅延」の一語によって、ふだんは意識されることのない声の身もだえが可視化されているような歌である。
この額に棲む鳥の名も花の名もみなともに逝く春近きこと
最期の近づいた祖母を詠んだ連作のなかにある一首だが、ここにもふだんは目に見えない、人の記憶のなかにしまわれた動植物が「逝く」という動きをともなって現れる。特にこの歌では見えないものを見る力が「死」を「ゆたかな死」へ変容させている。さまざまな動植物とともに空へ消えてゆくような映像はむしろ祝福に近いものだと感じる。
『命の部首』にはユーモアを湛えた作品も数多くそのなかから印象的だった一首をあげておきたい。
露天湯に光の差せば湯面に輝く垢だらけだなこのお湯
