『流されスワン』成瀬有
魚が鳴くのだとしたらどんなときだろう。そのとき、魚は妙に弱く小さなもののように見える。群れの危機を察知し、怯えて鳴くのではないかと思う。しかし懸命に、互いを守ろうとして。大海や河川の果てなさや境界のなさは、見えない世界が広がっていることへの恐怖に変わって、魚を水底へ縛りつけている。
「我」も合わせて鳴こうとしていることが突飛である。わざわざ水の底に向かわずともよい、強い人として川面を見下ろしていればよい。本書にあるこうした歌のように。
風、峡のもみづる樹々のくれなゐを吹きてししまく怖ぢず見よ、今
けものなるおのれをまたく遂ぐるごと風響
それぞれ別の場面であるが、どちらでも見下ろす山峡を風が通りぬけている。紅葉した森の赤、吹きすさぶ森、仮に昔の人になったつもりで、古代の精神を宿してみるならばこらえようのない畏怖を覚えるところであろうが一方では現代の個人の感覚がこまごまと、鋭く根差している。先ほどこの歌を引く前にはここにいるのが「強い人」と思ったのだけれど、しばらくかき分けてみれば、強さという輪郭のうちに別の実感もこみあげていると思えてきた。
相当に文語を徹底する作風であるのに「風は峡の」とせず、いきなり読点で「風」とだけぶつ切りになっているところがなかば投げやりのような印象もするし、なれるはずのない風にどこか自分をたくしているような気もする。「怖ぢず見よ」というのは言い聞かせているだけで、その以前の怖じるほうの心境こそが長きにわたって森に積み重なった土壌である。次の歌でも、やはり「けもの」に身をたくしているように見えて「遂ぐる」ことのほうが重い。その遂げられなさを昇華すべく鳥は森を去ろうとしている。
『流されスワン』の白鳥(ヤマトタケルの転生した姿)に託されたのが戦後青年の心情であり、先立つ古代まで含めた回顧であり、たどり着いた現代の「流され」という自意識は少し寂しくいたましい。けれど、古代の観念を現代に引き寄せようとする際の避けがたい緊張感が白鳥の足首には個体タグのように結びついて、それゆえの希望というか、自身と時代をみつけようとするための目印がたしかに、ありありと存在するとも思えるのである。
ふと自分だけの声を上げたいときにそれでも群れの一部でありたい、と思いがけずねがってしまったときこの人は流されながら満たされてもいて、そういった矛盾と孤独の積み重なった上に、時代はいやおうなく続いている。
奈良四条通りにゆるる影曳きて曳く何もなきユウ汝れは、誰
るゐるゐとゐる霊としも夏の陽のはげしふる国の昼ただ暑し
