匂ひからこはれはじめて桃の実をしづかに啜る夜の流しに

濱松哲朗『翅ある人の音楽』

 

一読、すーっと鳥肌が立つときのかるく痺れるような感覚が来る。やがてその鳥肌と歌の余韻が一体となってしずまり消えていく。そういう読後感をもった一首である。

桃を食べる場合、皮をむいて櫛状に切り分け皿に盛る上品な食べ方もあれば、皮をむいてそのままかぶりつく野性的な方法もある。この歌は野性的なほう、桃を丸のまま食べている。そうでありながら、食べている場所は皿の置かれていないむきだしのテーブルや床などではなく流しであり、桃の汁がこぼれても良い場所が選ばれているところに「きちんとした」感じがただよっている。「啜る」というのも良く熟れた桃であることを示唆する以上に、汁をなるだけこぼさないようにする意識を際立たせる。「桃」ではなく「桃の実」というのも丁寧な記述であり、丁寧な質感は一首にこまやかな肌理を残している。このように野性と「きちんと」のバランスが不思議なかたちで取られているのだが、この不思議なバランスは流しで桃を啜るときのやや前傾した人体のイレギュラーな姿勢から体感されるものと何かしら似通っている。そのバランスのとり方に生身の人間の存在感が表れるのだと思う。

「匂ひからこはれはじめて」はまずは桃の実にかかると読んだ。皮をむかれる前からかすかに匂っていた桃は、むかれることでより一層匂いを放ち、口をつける前から桃の実がこわれはじめているという認識は透徹している。あるいは、「匂ひからこはれはじめ」るものは桃に限らないのかもしれない。この歌の言葉の順序はそれを許しているはずである。そうすると、自身もそのようにこわれつつあるのだ、という気配が気配として一首をうすく覆いはじめる。こわれつつあるものが、こわれつつあるものを啜り、壊す。ある意味、ゾンビ映画の一場面のようにも見えてくる気がするけれど、この歌では血生ぐささはなくその代わり桃のあまい香りが満ちている。

もうひとつ。この歌はわたしには銀色に見える。夜の流しのステンレスの銀色を核として、一首全体が銀色をまとっている。「こはれ」る、という動詞にも機械の部品の銀質が垣間見える。銀を見ていると明るいことと暗いことがバグる感じがして明と暗の意味がたやすく反転するような状況に陥るのだが、この歌もそういうところがあって、明るいものを見せながら暗く、暗いものを見せつつ明るい。思えば『翅ある人の音楽』には印象的な雪の歌が数多くある。

 

風花よ 呼気にひかりをうつしつつ見上げてゐたり冬の鉄橋
ヘミオラのやうに大きく舞ふことの雪に生れるならば或いは
鉄柵に雪吹きこぼれしんしんと胸に引き寄せられるシンバル

 

雪や雪空も銀とはまた違うニュアンス、つまり明るさと暗さのけじめがないというところで明暗がわからなくなる性質のものだろう。季節は真逆だが、明暗不明の雪というものを原点にしたかすかなバリエーションのひとつとして桃の実の掲出歌があるのかもしれない。

 

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