灯を消して肩よせてテレビみてゐしが雨音のなかにともに消えにし

『時間の神の蝸牛』渡辺松男

暗い部屋の中で、人と隣り合ってテレビ番組を見ていた。そのとき屋外は雨が降っていて、雨というのはその後もときどき降ったり降らなかったりするものであるけれどもテレビ番組を見ていた時間は消えてしまった、テレビの画面を消したことと同じように。

というように読み解いた。難しい言葉は使われていないが、思いのほか入り組んでいる。「ともに」という表現はいくつかの要素を同じ箱に入れるために使われているが、具体的に何なのか少々定かでない。ストレートに取れば「テレビ番組」そのものと「テレビ番組を見ていた時間」とを指すのだろうが、それにしては構造が落ち着かないようだ。もし「テレビを一緒に見た人」を指すとしても、人の面影は特定されずにおぼつかない。「ともに」と書かれながら、それぞれはみな別々の箱に収められてしまったような感じがする。なぜならば「雨音のなか」というのが冒頭書いたように消えてしまった時間の後日譚、のちに降った雨のこともあわせて指していて、今なお降っているので、この歌では純粋に何もかもが消し去られたわけではないからだ。仮にすべてが失われたのなら「ともに」という箱には順当にすべての光景が収まるが、この箱にはあきらかに箱ではない外部が存在していて、そうした外部も含めたロングショットの風景がここに切り取られている。別の言い方をすれば、箱はそれほどしっかりとした輪郭をもたずに、空間にじりじりと溶け出している。「みてゐし」「消えにし」と過去形がダブって使われていることもあるだろう。時制は主観に縮尺をくわえて測定可能にする。いくつかの世界は一つに収束しないまま、そぼ降る雨によってつながっている。

〈テレビを見る〉という文化体験の定義が、〈特定の時間と位置において、コンテンツを定期的にかつ一度きり享受すること〉なのだとしたら、こんにちテレビを見るとしても、それはかつてのテレビ体験とはすでに異なるものになっているのかもしれない。まずは録画があり、今はさらに配信も加わった。かつて再読不可能だったテレビ番組は、未来から後追いできるという意味では、むしろ雑誌や書籍に近しいものとなった。

初めからないことと、消えてしまったことの決定的な違いがここにある。「消える」というはたらきの前提には必ずそのものが「あった」。テレビを見るという体験はあった。テレビ番組が消えても、テレビという機械は永遠に同じ空間にとどまり続け、両者は決して収束しない。この対比に関して、私は先ほど書いた箱の中と外という話と同じことを言っているのだけれど、もっといえば面影のおぼつかない「その人」、この歌ではそれ以上のことは知らされないけれども、隣り合ってテレビを見た人、見たような人、その人の存在がきっちりと歌の中に刻まれるということを、切なく頼もしく感じているのである。

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