田村元『昼の月』
子どもにとってダンボールはありがたい存在だろう。おもちゃの剣がほしくても子どもにはお金がない。親にお願いして買ってもらえればそれがいいのだが、「うん、いいよ」という言葉を親の口から引き出すのはなかなか難しい。そいういうときに出てくるのがダンボールである。タダで手に入り、加工もしやすくかつ加工しやすい割に本物らしい雰囲気を醸し出してくれる。個人的な記憶をあさればチャンピオンベルトがほしくて、しかしなんのチャンピオンでもないのに親にチャンピオンベルトを買ってほしいとは子どもごころにも言えず、四角く切ったダンボールに金の折り紙をはりつけて自作したことがあった。思いのほか出来がよく、調子にのっていろいろなチャンピオンベルトを六個も七個も濫造した。そうした具合で団地に落ちていた剣もおそらくは親に買ってもらえなかった子どもが自作したもののはずである。本物らしい雰囲気とはいえ、ごっこ遊びが終わればその剣は細長いダンボールのごみとなって路上に放置される。この歌の何ともいえない良さは、その細長いダンボールのごみがもう一度剣として復活する可能性をうかがわせているところだと思う。
「手に取りてわれも振り回したし」なので実際に手に取ることも振り回すこともなかったのだと読めるけれど、イメージの上ではダンボールはふたたび剣としての価値を与えられている。この剣は、遊びに使われてぜひへなへなであってほしい。「振り回したし」が本気であればあるほど剣はへなへなであってほしい。そう思うのは、この歌を仲裁者の歌と読みたいからなのかもしれない。「振り回したし」の原動力は社会生活の各所でためられた鬱憤や屈託だろう。にもかかわらずビール瓶や包丁やパイプ椅子や、威力があり振り回そうと思えば振り回せるものは他にいくらでもあるなかで、放置されたダンボールの剣を見出し選び出したこころの機微を考えれば、それはへなへなであるはずだ。へなへなになったダンボールの剣を想像の上で振り回すとき、ためられた鬱憤や屈託は角を失い団地の風景もろとも丸みを帯びる。
お通しがつつつーと横へ滑りゆく少し濡れたるテーブルの上
よく冷えたホッピーを杯にそそぐとき控へ目な王のごとき心地す
バス停で見知らぬ人と順番を譲り合ひたり薺揺らして
田村作品は世界全体を見渡すようなことはほとんどない。あくまでも眼前の、世界の一隅にまなざしを落とし部分的な平らぎをもって一首を満たす。鋭いレトリックや、また文体から生じる圧力といったものが手放されているのも、この平らぎを維持するためなのだと思う。世界全体を見渡さないことも、やはり平らぎへの希求がもたらす志向なのだろう。この志向がすべての場合において最善だとは思わないが、どんな志向にも最善というものはなく、これは一隅の平らぎに閉じこもっていることとも違う。一首一首のやわらかくおおらかでかつ頑なな譲らなさを思うに、その一隅の積み重ねの先におそらくは広大な平らぎを意識している。一人の作家の、1センチずつ平らぎを拡大し世界に及ぼそうとするような方法の地道さを、わたしはまぶしく思う。
