われを置き粛々と変化してゆける皮膚、髪、まなこ 四十五歳しじゅうごの秋

遠藤由季『北緯43度』

 

たとえばこれが二十五歳の秋であったら、皮膚や髪や眼といった身体の変化とわれ自身の変化とは同期していくのだろう。が、そのうちにこの同期は崩れてゆく。こころというのは案外年をとらない。人にもよるのだとは思うけれど、だいたい三十歳くらいから不老がはじまる。物を忘れることが増えたり、疲れやすくなったりするとしてそれはこころの問題とならず身体の問題として処理されるので、こころはなかなか年を取らない。一方で身体の変化は絶えず進んでいって、しかもその変化は認識しやすいものである。皮膚に出るたるみや皺、髪には白髪が増えてくる。一目瞭然の変化が起こる。近くのものが見えづらくなる老眼も四十代で出てきたりする。しかしわれという名のこころは若い時代の光芒を纏い続けてしまう。

「元祖天才バカボン」のエンディング曲の歌詞が「四十一才の春」だから「四十五歳の秋」はそれより四歳半も上回っている。われの気づかないところで刻々と時間は進み、粛々と身体は変化する。われは身体よりも上位の存在であるはずなのに、ふと顧みればわれはまだまだ若くしかし確固たる身体の変化に照らせばそうした若いわれはほとんどまぼろしと同じである。それでもこの歌の「皮膚、髪、眼 四十五歳の秋」には乾いているけれどなにかさばさばとした潔い言葉の動きがある。もはやまぼろしとなったわれに骨を通して立ち上がらせようとするしずかな気迫がある。

 

ほんとうのひとりではまだないけれどその日のためにすする素うどん
傘一本あればなんとかなるだろう少女のころも働く今も

 

こうした歌に見え隠れするものを言うために「気骨」という語があるのだと思う。これだけひらがなが多用されながら、その気骨はまぎれもない。一首の皮膚を指で押してゆくとその先には硬い骨の感触がある。まぼろしにも歌にも骨が通っている。この骨の感触が『北緯43度』のもっとも得難い魅力なのではないかと感じている。

 

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