てのひらの銀の硬貨のうらおもて星をゆめゆめ信ずるなかれ

『羅針盤』本川克幸

硬貨を長時間にぎりしめてすごす機会は年々少なくなっていて、財布から取りだすとしても即座に手離してしまうことのほうが多いように思う。これには二つの事情があって、ひとつは食事の精算(現金のみ)とか、電子マネーを受け付けないタイプの自販機に出会った時だけ、致し方なく実際の硬貨が登場してすぐに商品にとりかえてしまうこと。もうひとつは、子供のころのようには硬貨に憧れなくなったことだ。硬貨が手のひらに置かれているあいだ、しっかりと握られているあいだには、意味とか、象徴とかいったものが力強く発揮されている。きわめて断定的に刻まれた「10」「100」といった算用数字や、書き込まれた年号、夥しい小さな葉の連なりの意匠、外国のコインともなれば人間の横顔であるとか。働くことが身近でなかったころは貨幣とはあくまで偶然手に入るものにすぎず、その偶然のしろものが、やたらと縁どられデコレーションされているのはほとんど小さな人形とか絵本と同じようなことだった。そういった憧れをあまり思い返すこともなく、淡々と支払いに使っていることが少しもったいないのかもしれない。

この歌の硬貨がそうした意味や象徴のかたまり、憧れのかたまりであると受け取ったのは、「うらおもて」という表現によるものである。硬貨は表裏が明らかになるよう、それぞれまったく異なるデザインが刻まれている(そういえば、仮に表裏が同一のデザインであっても機能としては損なわれないと思うのだが、どうなのだろう)。ともかく、裏があり、表があるものを、何度もたんねんに裏返し、、、ては覗き込むしぐさ、事物に対する感性と視線のやりとり、疑念と憧憬の合わさった気持ち、それらを受け入れながら硬貨はやがてこっくりと銀色にかがやきはじめる。銀製の硬貨は記念硬貨を除いてそうないはずだから、ここでいう「銀」は色のことしか指していないが、見た目というよりも比喩として、芯まで銀色に染まっている。

「星」を「信ずるなかれ」というのはいま書いたような貨幣の性質について、実体と意味との両義性について、ちょうどコイントスを始める前は裏でも表でも透明な賭けの対象でしかなく、どちらの結果でもないというような状態のことを言っているのだろう。しかしながら「ゆめゆめ」の一歩引くような、ほとんど敬虔とも呼びたいほどの慎重さによって、星も信じてはいけないどころか、かがやきをいっそう増している。この歌では、星も、硬貨も、握りしめたそばからあっというまに手品のようにかき消えてしまうのだけれど、そうした清廉な空白がこの歌集にはときおり現れて、まぶしいかがやきを残している。

いつまでも同じ時間の中にある空と湖 裂かないでくれ
はつなつの空を記せば罫線をはみだしている「光」の文字もんじ
チェロ弾きの空のケースが床にあり舟のように柩のように

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