『モーツァルトの電話帳』永井陽子
(『永井陽子歌集♯』石川美南編)
「眠い」「眠たい」は体から自然にもれだす声であろうが、「ねむりたい」には意思の力の作用もくわわっている。「ねむりたい」の「ねむり」を願望の「たい」がふんわりと包み込んで、舟を漕ぐ頭が眠りの世界へもぐりこんでいくような様子。このとき初句は自動車のアクセルではなく、ゆっくりと漕ぎ出した自転車のペダルで、近くに置かれた二度目の「ねむりたい」では反対の足に力点が移る。「ねむりたい」「ねむりたい」の反復によって、歌はゆっくりと遠くへ向かって前進するけれども、足の運動としてはその場を回転している状態なので、全体としてその場に楡の木のようにとどまっている、しかし楡の木は空間的に大きく広がっているという感じ。
歌の中にあるのは、「ねむりたいわたし」と「ねむりたい楡」の二つである。しかし、「わたし」が同じ動詞にはさみうちされていることで、「わたしがねむりたい」というもう一つの文意がうまれている。冒頭に書いたように、ここに意思の力が生じる。「わたし」と「楡」との出会いは、「ねむりたいわたし」に私が出会うことに変化しつつ、ここにおいて「わたし」と「楡」が一部ずつを持ち寄って交換し、もたれあいながら重なっている。単に、心地よい音韻を組みあわせた歌というよりさらに、「ねむりたい」というような自らを見つめ返す視線がどこかにあって、永井の作品の奥行きがうまれているのだと思う。
待ち合はす南大門に雨降ればくるぶしが寒さうな仁王よ
虫の音が絶えたる伊那のゆふぐれはひと恋しげな風が吹くなり
こういった作品も、ちょっとしたセンチメントで飾っているのではなく、いっそうもの寂しげな奥行きがある。たくましい仁王像によくくるぶしを見つけたものだなと思うし、雨が降る音、風の音、そういった自然の音色が短歌の韻律の中に隠されている。音を通して世界を参照し、自然と声とは同じ音としてつながることができる、そういった力強さもまた感じ取れる。
