高木佳子『玄牝』
正義は人を狂暴にする。正義こそ口ごもりながら伝えられるべきものであるにもかかわらず、それを手にしたとたんおおよその人はいきいきと狂暴化する。並行して正義は数を力にしようとする。また、たくさんの人のひとつひとつの顔をのっぺらぼうにしてその場の正義に同化させてしまわないと気が済まなくなる。きちんと顔をもった人々の集まりが「いちがん」の中身であるはずなのに、「いちがん」に組み込まれたとたん一人ひとりの顔は溶かされて鋳型に流し込まれ、巨大な「いちがん」の顔が出来上がる。しずかに考えてみればそういうことなのだけれど、渦中にあってこのプロセスに気づくことができる人はごく少数なのではないかと思う。歴史的に見ても人間は同じあやまちを繰り返しながら時代を作っているように思えるなか、リアルタイムでこの歌に出会えたことは個人的にはとても貴重な出来事だった。
国家であれ会社であれ町内会であれ「われわれ」であることが力となって何かを推し進めていくのだとしても、そこに全面的に加わるとき生じる違和感というものがたしかにある。かつて一度だけデモに参加したのだが、そこにはさまざまな組織の幟が立ち並び非常に違和感を持った。個人としてそのデモに参加しながら、傍目にはかずかずの幟に従う巨大な顔の一部にされてしまったようで不本意だったのだが、この一首の背景にはそれよりはるかに強烈な同調への圧力がある。
怒りさへ強ひられてくる福島にありて強ひくる人を覚えつ
掲出歌と同じ「異族」という連作のなかの一首。他者の感情を規定することは当然できないはずだが、ある場面で人はやすやすとそれをやってのけてしまう。おそらく相手方にまったく悪意はないのだろうけれど、その悪意のなさは個人が「いちがん」に吸収されることで得られた悪意のなさである。しかし「いちがん」の顔は巨大すぎて見ることができない。個人の顔を凝視し記憶することでしずかに抵抗するほかになく、それはとても苦い。集団と個人との関係についての絡まりをほぐすことなく、絡まりのまま示し得たことが「異族」の、また『玄牝』の見逃すことができない特質なのだと思う。
人乗せていまだ人なき野をぞゆく銀の電車のひたすらがある
