相原かろ『浜竹』
『浜竹』の歌にはいわゆる「圧縮と解凍」がほどこされたようなものはほとんど見られない。掲出歌もそうで、一か所「悲しさの」の「の」が散文には出てこないニュアンスを含ませているのみで、その他のところには読み手をさまよわせる要素はほぼない。だから散文的な歌なのかといえばそういうわけでもなく、「の」の一点突破で散文的な、というマイナスイメージを持つ評言からも逃れている。どの歌も卵のかたちのように完成されているにもかかわらず、その内部のわずかなニュアンスの動きがさまざまに繰り出されて単調な歌集にはなっていない。第一歌集ながらカンフーの達人的な力の使い方だと思う。解凍つながりでいえば冷凍されたような感じもなく、歌には生まぐろのように自然な生あたたかい質感があるのも大きな特徴である。
犬小屋を持っているのは外に飼われている犬だからである。例外はあれ、思えばたしかに犬小屋は人家と同じに三角の屋根であり屋根にはきちんと屋根の色が塗られていたりする。板に犬の名が書かれたものが打ち付けられて表札になっている場合も思い出される。犬に郵便は来ない。来ても飼い主の人家の表札を見、そのポストに郵便物は入るので、犬小屋の表札は実用性がない。人間からのせめてもの愛情表現の一種ではあるのだが、犬にとってはまったくうれしくない気遣いでありその愛情表現は犬小屋にまとわりつくのみで犬までは届いていかない。人間の愛情の空回りの象徴として犬小屋の屋根や表札があり、しかしその空回りを生きるもの同士が引き起こす哀切と捉えつつ、どこか生あたたかいままそれを見ている。
夕方の暗さの中に落ちていて母がテレビに照らされている
そのむかし赤ペン先生なる人へ将来の夢告げしことあり
線香の昇るけむりはどこかへの道とは見えずほどほどで消ゆ
踏切の前で止まっている母を電車の中から見て通過した
分からない成分なども見てはみて最上級のユンケルは戻す
外部からかかってくる負荷が、あるところでぴたっと止まる。線香のけむりを死者の道だと信じるまでには至らない。電車の中から見た母に対して感情移入まではいかないし、最上級のユンケルを思わず買ってしまったということにもならない。感情の揺れは起きても、感情の根本は不動であって最終的に揺れは不動に回収されてゆく。この運動がおそらくは一首の生あたたかさとなって読み手のなかへ入ってくるのではないかと思う。