ものみなの息をひそめし如き昼南瓜かぼちゃの花に蜂ひとつ来る

『帰潮』佐藤佐太郎
※引用元は正字使用

少し前に佐太郎を取り上げたときあまり書ききれなかったという思いがあり、もう一度取り上げたく読んだ。人気もあり、多かれ少なかれ影響下にあるだろうに佐太郎が難しく感じられることがある。連作の地となる平明な作品でも、また有名な「しだれ桜」「ぬばたまの夜」とかであっても、定型の中に特殊な収まり方をしていて、それがそのまま作品の特性やよさになっているのが簡単には読み解けない感じ。ここでいう「特殊」とは実はベーシックを極めているということだと思うし、何がベーシックか、を定義するがわの作者・作品であるから、その定義をあらためて証明しなければいけないようなプレッシャーと困難がある。その困難は佐太郎のおだやかな作風にあまりにも似つかわしくないゆえに、私はときどき難しさ、ややこしさを感じているのだと思う。

たとえばこうした歌がある。

さわだちて吹く風のなか青草も刈るべき麦も見えてなびかふ
二日ふつか経し雪とおもふに消え残る杉の林は杉の香ぞする

見える景色は大づかみしてしまえば何もかもを取り込むこともできようが、前者では「風」「青草」「麦」およびその動きがターゲットである。世界が地続きで無限であるとき、何を切り出すか、選択するかがいっぽうで常に変化してゆくこと、その変化を書き留めてゆくこと。佐太郎の歌集からはそんな印象を受ける。「青草も」「刈るべき麦も」とあり、そうでない自然の事物もまた無数に背景にはひろがっている。あえてその二種だけを「も」でくくり、風を吹かせてみる。自然と操作とが、ちょうどその分界点である定型において、ひるむことなく融合している。後者もそう。同じ雪を見て、白い、と思うか、冷たそうと思うか。「二日前の雪だな」とこのとき思い、続けて杉の木立から香りをかぎとっている。雪と杉林という組み合わせ、またその書かれた順序にも意味が含まれていそうで、しかし意味そのものとまでは育たない詩的なムードを、縫い目のない不思議な工芸品を手に取るように眺めてしまう。

掲出歌は、そういう選択の中でテーマとならないものの一切を「息をひそめし如き」として排している。ただその言い回しがむしろ、この世界すべてのものに命を吹き込んでいるようなありさま、人工物も無機物もほんらいは呼吸ができるけれど、この時間にはぐっとこらえている、その息詰まる瞬間にはこの人じしんも加わっている、そうした幾重にも積み重なった緊張感をうみだしている。「ひとつ来る」という何気ない表現も、どこから来たのか、どのくらい近づいたのかはわからないまま、蜂のはばたきが花弁に触れそうで触れない、あいまいなままの時間が読者の前にもたらされている。やっぱり、佐太郎を読むと私は妙に緊張してしまうなあと思う。

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