手を前に伸ばすと空を飛べそうな二〇世紀の感覚がある

嶋稟太郎『羽と風鈴』

 

はじめてこの歌を目にしたとき、ごくごく小さい盲点を針で突かれたような感じがした。手を前に伸ばして空を飛ぶ、といえばたとえばスーパーマンが思い浮かぶ。ウルトラマンも浮かぶ。彼らは手をまっすぐに伸ばして飛ぶ。そうしたキャラクターの飛行姿勢は羽ばたいて飛ぶ鳥を経由することなくおそらく飛行機という羽ばたかないで飛ぶ乗り物から連想されたものだと思う。ライト兄弟の初飛行が1901年ということを考え合わせるとぴったり二十世紀のはじまりとともに人は空を飛び、大量輸送のため、また空気抵抗を減らすためだと思うのだが、飛行機は時代を経るにつれて羽の存在感を減らし細長い全長をその象徴として定着させた。飛行というときに想像するかたちはこれをもってはばたきから伸身へと変化した。すべて二十世紀の出来事である。これまで本能的に人類普遍のものと感じていた「手を前に伸ばすと空を飛べそう」という感覚がじつはまったく本能的なものではなく、後天的に刷り込まれたものだったのだとこの歌は思い知らせる。

それでは二十世紀を超えたらどうなのかといえば、たとえばドラえもんであるだろう。まだ見ぬ未来の、架空の世界の話ではあるが、タケコプターで飛んでいるドラえもんものび太くんもその手はだらんとしている。UFOを思ってみてもそのかたちはもはや細長いものではない。「手を前に伸ばすと空を飛べそう」は人類の歴史からすればごくごく限られた範囲の人々が持つ特殊な思考であり、「手を前に伸ばす」は飛翔のエネルギーが貴重なものであった時代の効率化が生んだ所作なのだと気づかされて衝撃を受けるのである。そしてそれを明らかにする語り手の口ぶりはごくたんたんとしている。こちらからすればものすごい発見をしているのに冷静な態度を保っていることにまた驚く。

 

地上までまだ少しある踊り場に桜の花が散らばっていた
乗り過ごして何駅目だろう菱型のひかりの中につま先を置く
透きとおる小さな筒に挿されおりテーブル二つ分の伝票
ついでにと思いあなたの自転車のサドルを磨く夏の終わりに
数秒で消えるひかりが伏せ置いたスマートフォンの角から漏れる
対岸の街の明かりが冴えてくる窓のしずくを横に拭えば

 

高すぎもせず低すぎもしないちょうどのテンションがどの歌にも通底している。日常的な事象の切り口ももちろん面白いのだけれど、それにもましてこのテンションの保たれかたがゆるぎのない個人を感じさせつつ、一方では他者である読者の身体にすっと忍び寄るプレーンさともなっていて得難い資質を感じる。

 

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