かたむけると何か袖口から流れ出てしまうきみはよるのうつわ

『アステリズム』金川宏

しっとりとした液体や蜜を滴らせるような、幻想がある。昼や夕方の光が金色の蜂蜜であるとしたら夜は黒い糖蜜となるのだろうか。ことさら「うつわ」が必要なように思えるのは、昼や夕方に比べて圧倒的に視界の悪い夜間は、事物との距離を測りがたいためかもしれない。明るければ見通しのよい道や広場で、電柱や木々との距離がある程度目で見てわかる。鳥の鳴き声に振り返れば、その鳥の止まっていそうな木の枝がどのような場所にあり、その木が遠いのか近いのか、によって鳥の位置を見えずとも推定している。夜となればそうした推定の精度が大きく低下するだろう。反面、その人の精神とか五感といったセンサーはより鋭くなっているかもしれない。昼には目にも留めない人工物――街灯や家々の明かり、街の看板といったものが次々に目に飛び込んでくる。が、周辺の事物を遠近法の手がかりに使えないためにそれらとの距離は測りにくい。見通しの少ない中で兎にも角にもこぼれおちそうなものを掬ってためておかねばならない、そういったときに必然的に手元に届けられるものが「うつわ」である。
この歌から、この「うつわ」から滔々と流れてくるものは、ことごとく上に書いたような「よる」に含まれた要素であって、「きみ」にはまったく作用されていない。「うつわ」である側の「きみ」はせいぜい長袖を着ているということがわかるくらい。「かたむけると」とあるので、傾けることができる、ということはわかるが、実際に傾けられはしなかった。この透き通った容器には今後もきずがつけられないし、割れることもない。

前回私は、この歌集に「視点がない」と書いたのだが、もう少し突き詰めるならば「視点が散在している」「視点が(点でないほどに)大きい」といったことが言いたかったのかもしれない。そしてその印象は、文意・歌意、語彙、イメージというだけでなく、「かたむけると」という仮定にとどまる表現や、「きみはよるのうつわ」という組み合わせによって緻密にもたらされている。一見うつくしい詩というだけで読み流しそう、しかし「きみ」「よる」「うつわ」の共通性と意外性の出し入れによって、読み方はいかようにも拡散してゆく、ここに「私」がいてもいなくてもよいことが、かえってじんわりと、途切れない地熱のように感じられる。

雨粒がさわってくるのを偶然とよべばいいのかな天秤みたいに両手ひろげて

前回の掲出歌にようやくたどり着くことができた。「雨粒がさわってくる」という言い回しで、動きは「雨粒」のほうにのみみられることがわかる。「この人」がここに立っているという感じがするけれど、雨が降る範囲であるならば、どこに立っていてもかまわない。無数の雨が、無数の人に同時にもたらされている、それが「さわってくる」という状況だと思われる。なんというか、「偶然」というテーマについてこのような概念で書けるのだということ、(もうほとんど自明のようだけれど)なぜだかこの短詩形が定型であるという「偶然」のことを同時に書いているのではないかということ、しかもこの表現形式に特有の「語の組み合わせ」という技術を使って書かれていることに、とても感じ入るものがあった。新しい書き方以上に、新しい読み方を照らされて導かれる感覚を得ることには、読者としてたいへん貴重な代えがたい喜びがある。

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