高層の窓より妻とみつめたる雨が楓の並木にしぶく

御供平佶『羽交』

 

歌に発生する時空は、他者が作り出した一首と読者であるわたしとの中間地点にあるような気にもなるし、あるいはあらかじめ存在している読者の時空の側へ完全に引き込まれて成立するもののようにも思える。そんなことを思うのは掲出歌の時空が頑なに読者であるこちらの時空に引き込まれてこない感覚が強くあるからである。その人が包まれている時空の味わいが読者によってたやすく変換されない。

連作の前後を読めば妻が入院中であり、高層の窓というのも病室もしくは病院の廊下にある窓なのだということが把握できるのだけれど、その把握を除いても荒涼とした時空がこちらの肌に届く。こちらの時空がどのような肌触りであったとしてもそこに馴染まないかたちで歌の時空があり、それをそのまま味わっているような気分になる。この歌には形容詞がない。形容詞は歌と読者とを抽象の橋でつなぐものだが、その橋がない。だから一首の時空が読者のものとなる糸口が見られずあくまでも他者の時空として享受することができるのではないか。そんなことを思うのである。その上でこの歌の時空は針金のように感じられる。雨だから、というのではなく、この文体だから、なのだろう。

二人がみつめている雨は、降りながらなお落下余地のある雨である。降る雨のこころもとない位置から雨を見ている。入院という事象を絡めるまでもなく、人間という存在そのもののこころもとなさがひっそりと息づいている。「妻とみつめたる」も何気なくかつ取り換えがきかない。「わたし」だけが降る雨をみつめているわけでも、「妻」だけがみつめているわけでもなく「わたし」と「妻」が雨をみつめているというのはそこに「雨だね」というような会話があれば成立しうるけれど、この歌の無言のなかでは本来成立しえない。「わたし」が雨と向き合っている最中、同時に妻を見ることはできないし、万が一できたとしても妻が窓から何を見ているのか、それは妻のなかにしかない。このように「わたし」が持つふたつの目と「妻」の持つふたつの目は決して共有されるはずはなく、「妻とみつめたる」が可能な目は四つの目が重なり合ってひとつになった目だけである。そしてその目がこの歌のなかにある。目は、降る雨のこころもとなさとひとつになることの安堵とを同時にもたらしている。形容詞は歌のなかで糊のようにも潤滑油のようにも働いてくれるものでありつつ、それをきれいにそぎ落としてなお一首の情感の機微はまぎれもない。

 

点滅の寒灯ふたつ踏切で遮断してゐる時間を照らす

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です