雨粒がさわってくるのを偶然とよべばいいのかな天秤みたいに両手ひろげて

『アステリズム』金川宏

言い方は色々だけれども「私」とか「視点」というものは短歌を読むさいの核として作用することが多いように思う。すなわち、電車の吊皮とか、揺れる後部座席でにぎりしめるグリップみたいに、つかんでいればまずまず振り落とされないだろうというポイントを手探りにさがしあてるすべを無意識に駆使しているのが読者である。共感でも違和感でも、言語によって成り立ってくる感想や批評とよばれるすべてのものは、車体がどこへどの景色に向かって走ってゆくかの問題であって、それとは別に、グリップの位置・有無という基本的な出発点があるように感じている。うまく言い得ていないが、短歌にとって初期設定値のようなものが存在するという感覚がある。それは「私性の問題」としてさまざま論ずるよりもっと手前にあって、素朴で、原初的なものだと私は想定している。

さて、私はいまどの方向にむかって腕をのばせばいいのか、どのバーを握り締めればよいのか。そうやってさがしあてるときの手がかりになりそうなもの、そのヒントとなりそうなのは、すべての言葉の組み合わせにいちいち備わっている予想値とか期待値、語のあっせんとかあしらいといったものではないだろうか。掲出歌と同じ歌集から引いてみよう。

星のつぼみひらくまで澄む冬のみずあなたの靴を置き去りにして

恒星にはあたかも生物のような一生のサイクルがあり、生涯のどこかで大規模な爆発(超新星)を起こすと聞いたことがある。開花を待つ花に重ねられるこの「星」にはそういった恒星のイメージをもったのだけれど、いっぽうで後半になると「みず」「あなた」という単語の組み合わせによって、ひょっとするとここでいう「星」は地球のことかもしれないという思いがよぎる。
この展開について初句から読み解こう。「咲くまで澄む」の表現がすこしぎこちなく、難解であるが、同時にこの書き方でなければこうした単語の組み合わせは機能しないだろうという手ごたえもある。「つぼみ」に対して「~まで」という副助詞が自然である。しかし「咲くまで澄む」という表現はあまり簡単ではない。咲いてしまうほど澄んでいるのか、または咲くまでは澄んでいて、そのあとは濁ってしまうのかとか。そういったぎこちなさが「みず」の一語にすぐさま吸収されて、先に書いたような、恒星から惑星・地球へのイメージの切り替わりが起こる。「靴」が「置き去り」にされていることから、むしろ「あなた」と書かれたはずの人はここには存在していないことが示唆されている。ただ、これまでに「あなた」の説明はされていないのでこの人がどういう人かはわからない。順当には「星のつぼみ」「冬のみず」といった修飾が「あなた」にほどこされているわけで、むしろ誰でもない人、この「あなた」は星や花といった概念に近いものだと推定される。

言いたかったのは、この歌集で「わたし」や「あなた」とされるものは、「私」「視点」といったグリップとむしろ切り離されているのではないかということ、この歌集はじっさいには「視点」のない場所で、にもかかわらずひとつの世界を立ち上げることに成功しているのではないかということである。掲出歌にぜんぜん触れていないけれど投稿時間をオーバーしてしまっているので、次回もういちど取り組みたいと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です