少女二人酔ひて互ひに帰り行く石だたみの上何か明るく

『歴史』近藤芳美
※引用元は正字使用

近藤の他の歌集に比べて、言葉に開放感があると感じられた一冊だった。

『黒豹』とかであればやや無理筋のぎこちない韻律に対して観念を覆いかぶせてくる感じ、定型に対してアクセントを多めに置いている感じがある。現代仮名遣いに変更しているためもあるだろうか。

森くらくからまる網を逃れのがれひとつまぼろしの吾の黒豹 『黒豹』
負うものは過去よりの声森をいそぐ老いし黒豹を常のまぼろし

深い森を闊歩する「黒豹」のイメージを除いても「負うものは」「過去」「いそぐ」「老いし」「常の」という畳みかけがある。「過去よりの声」を「負う」「黒豹」は「森をいそぐ」、その姿を「まぼろし」として「常」に感じている、という歌意だと思うが、すべての語順が倒置されシャッフルされることで、裏の拍が強く感じられる。さらには「負う」という動詞も、「声」を負っていることと、「まぼろし」を負っていることの両方に作用していて、初句にありながら二重の重さを抱える。

『歴史』よりも以前に書かれた『埃吹く街』でも同じような印象はある。

さながらに焼けしトラック寄り合ひて汀の如きあらき時雨よ 『埃吹く街』
待ち得たる時代とも或いは思へども疲れやすし単純な思考にも

思うに、近藤の作風においておよそ二種類の韻律というか音楽性が機能しており、「生き行くは楽しと歌ひ去りながら幕下りたれば湧く涙かも」(『埃吹く街』)のように心地よい和音を使って短詩型がもつ分量以上のスケールの展開を聞かせるものと、先ほどいくつか挙げたような不協和音や変拍子を効果的に使うものがある。いずれもフレーズや楽章の違いということであって、まずは韻律が目から飛び込んでくるという不思議な体感、少々後追いで、思想と意味とが訪ねてくることに対して、どう向き合うかが近藤芳美を読むという読書体験となってくる。頭の中に音の像が残りながら鳴る。近藤の短歌は、意味をせかさない遅さを備えていると思う。

それで、『歴史』は時期的にも前期と中期の間くらいに位置していて、後年の果てしないアクセントの展開に至る前の試行というには、あまりに開放感とか甘やかさがメロディとして丹念に鳴っている。掲出歌でいうならば「何か明るく」が軽めである。「少女二人」という初句でかまえても「酔ひて」の展開ですっと力が抜けている。近藤が他人を書くときのこわばった緊張感が、ここではそう表には出ていない。「少女二人」にむしろファンタジーを重ねていることに思う節はあるけれど、そうはいっても軽やかなのである。深刻な状況を書いた歌の隣に、やさしい風景が対置されるなど、ぎこちなさでない方法論が前面に出ているように思い、このまま話を続ければ連作の構成などの検討にも進めそうである。

※更新が遅くなりすみませんでした。

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