小原奈実『声影記』
普通列車と違い、特急の座席なのでシートに座った状態だと右か左に窓がくる。体を横にかたむけて窓に頭をつけたままいつしか眠ってしまったのだが、眠っているあいだにも時間は過ぎていて眠るまえには降っていなかった雨が窓に打ちあたり筋をつくっている。誰にでも見覚えのあるような出来事が完全体の短歌となってここにある、そういう気持ちでこの歌を読んだ。日常的な場面なので類歌はあるのかもしれないけれど、この一首のおそろしいところは場面の切り取りではなく、うとうととした目とみひらかれた目の双方が同時に存在している点なのだと思う。うとうととした目はもちろんまどろみの身体に含まれたものである。もうひとつのみひらかれた目は文体という身体に含まれている。「やがて筋なす雨に倚りゐき」はうとうととした身体からは表されない言葉の鋭さを持っている。「特急の窓に凭るるまどろみは」にしてもそうだろう。文体という身体はまったくもって眠っていない。そしてこのふたつの身体の力関係はどちらかが圧倒的に強いということはなくお互いに拮抗している。見覚えのある出来事はこの拮抗によって研がれ見たことのないひとすじとなって目の前に現れる。
「やがて筋なす雨に倚りゐき」、ここにはもう窓という言葉はない。窓という言葉を削りとった先にはじめて窓の透明、その感覚が示されるのである。「まどろみは」も人間を削りとって現れた主語であるだろう。粘土細工のように粘土を足したり伸ばしたりしながら形が作られる感じよりも彫刻のような彫りこみによって歌がかたちを表しているのではないかという気がする。その彫りこみはそうとうに深く、もう一彫りしたら壊れてしまう手前の緊迫がある。
この歌の窓が、走っている列車の窓だというところもポイントのひとつで、列車それ自体が時間の帯となって走っている感覚があり、車内のまどろみはその時間の帯に守られてでもいるかのような静謐と安堵に包まれている。緊迫と静謐と安堵の、通常であれば交わることのない感覚がふたつの身体の作用によってここに立ちあげられているのである。
眠りなさい かくばかり世を見つめては眼から椿になつてしまふよ
※もう少し『声影記』について触れたいので次回も続けて書くつもりです。