『美しと思う花いくつ覚えしか』田江岑子
前回の近藤芳美『歴史』でメモをとった中にこの歌があった。
ハンストに入るものら皆マスクしてうづくまり合ふ夜のテントに 『歴史』
近藤に師事した田江の掲出歌も、これはハンストの歌なのだと取ることができる。「けもの」が肉食獣だとしたら、血の匂いを忘れることは文字通り致命的だ。いままさに、まちがいなく孤独と飢えとを抱えている。「忘れる」というのは特殊な行為で、人はそれを意識して行うことができない。「忘れない」ことは意識下の活動であっても、「忘れる」ことの最後の一押しを可能とするのは無意識だ。人はじしんがどの事実を忘れているのか、知ることができない。ただしこのいきものは、自分が「血の匂い」を忘れてしまったことを知っているように見える。決意して、決然と「血の匂い」を遠ざけたように見える。ゆえに肉体の空腹を満たすことをあきらめ、明晰な思惟を満たすための食物としての「月」を欲している。重ねてこれは近藤同様のハンストの歌である。しかしきわめて換骨奪胎されているところに、田江の特徴的な魅力がある(近藤の作品に影響されているといいたいわけでもない)。これは社会状況を喩とかたとえに変えているというわけではなく、どこまでも詩そのものに備わった飢えである。この人の歌集では、こうして月の匂いがかぐわしく、おそろしく漂っている。
螢泣くときのあらんか水色の涙を闇にふりこぼしつつ
岩落つる水の響に叫びあり紛れず確かなる拒絶をうけて
明日締めん帯枕辺に眠りつく火の川となり燃えてゆくおび
仰向けば乳房扁たし幻の弦の肋骨まさぐる楽師
アニミズムといえば近しいようにも思うが、どこか異なる感覚もある。田江の恐れは、自然ではなく人間の側にあるように思うのである。実在しない月の匂いは、ではなぜかぎ取れる気がするかというと、人間の理性のゆえだ。理性に貫かれた自然と身体から流れるものは、「水色の涙」である。このとき涙の色は、水色だろうな、とか水色かもしれないなとかではなく、断定された「水色」となる。着物の帯は夢の世界で燃えてゆくが、その帯を枕辺に用意したのは本人である。「火の川」は何かの表象ではなく、詩的なモチーフとしてしか存在していない。その傲慢、明日への期待と怖れとが、おのれひとりの夢にあらわれて燃え尽きてゆくさま。「肋骨」の歌では、じしんをナルシシズムによって指し示す目前で、平たい乳房を見下ろすまなざしが冷徹である。このときこの人の体はなかば透いており、より姿がはっきりとしてくるのは、虚像であるはずの楽師である。いずれも韻律を疑わず用いながらも論理に貫かれ、定型の本性をねじふせる力強さのようなものも感じる。
さいごにこういう作品もあるということを押さえておく。田江を含んで幾人かの歌人をこの連載で小特集にしたいという想定があり、また書くと思う。
ホルスタイン尾を打ち振れば遙かなる雲と触れあう明かるさを往く