小原奈実『声影記』
水面に降る雨を水中の魚はどのように聴くのだろうか。人間の想像からすれば、その音はくぐもったふしぎな和音のように魚へとどくのではないかという感じがする。さらに、自分の身体を想像の上で小さくして魚のサイズまで小さくしたとき、その音は音を離れて水のうごきとして魚へとどくのではないかという気になる。なんだろう、と異変に近づき水面のほうまで上がってきた魚は「なんだろう」を突き止めるためにしばらくそこに佇む。そして、探求心を恐怖心が上回ったところで、ふと水底のしずけさへ逃げかえる。魚のこころのことは知らないけれど、この歌の魚のこころは手に取るようにわかる気がする。少なくとも「魚が聴く雨音」という感覚に手を伸ばすことは、この歌に出会わないかぎりわたしにはなかっただろうと思う。いわば一首が神経の這い広がるマジックハンドとなって届かないところの感覚を味わわせてくれるのである。
蜘蛛の糸樹間に細しつたひゆくおそ夏の陽を血となさむまで
生きながら軀は黴ぶることありとけさ青天を肺へ沈めつ
木犀のこぼれやまざる地上にて生ける軀を置く秤あり
蜘蛛というのは生きものだけれど、蜘蛛の糸やおそ夏の陽といった非生物にも脈動を与え光景を生きものとして存在させるちからが『声影記』の歌にはある。そしてそのちからは逆方向にも作用して生きている人体が死体のように見えるタイミングがある。人体がなまものになる瞬間がある。この瞬間は一冊のなかで繰り返し喚起されてゆく。なまもの、という言葉はニュアンスとして死の影にひたされた言葉だが、黴びてしまう身体や秤に乗せられるときの身体(ここで秤とは体重計のことになるかと思うが、秤とされたときそこに乗るのは肉、魚、くだものである)は生けるなまものとして生と死の混濁のなかに置かれている。生けるなまものたちは生のラインと死のライン双方に接するかたちでその身を横たえるものたちなのだという気配のようなものが歌集のなかをひっきりなしに去来する。
魚の聴く水面の雨よしづけさへ逃げかへりゆくその背鰭みゆ
そいういう歌集にあって、あらためてこの歌に立ち返れば、魚も魚へまなざしをそそぐ者もまたなまものであり、それゆえのとっぷりとした重さが読み手に凭れかかる。人間というなまものとして魚というなまものに近づくとき、対象はより剥きだした質感をこちらに渡してくるのではないか。生活のなかではすぐに忘れ去られてしまうことだけれど、じっさい人間を含む一切の生きものは生死に横たわりながら生きているのだと思う。その事実を繰り返し洗い出されたもの同士の息づかいの交感が『声影記』に類まれなる深みを与えている。