『ブンバップ』川村有史
何度もくりかえし用いられるように、この歌集を読むときにとりわけ感じられるものをバイブスと呼ぶのだと思う。
バイブスが僕のバイブスになってく 海へ広がる前の夕焼け
「僕のバイブス」がこの作品では眼目にあたり、だれかのバイブスと、「僕のバイブス」とは異なっており区別できるのだと説明されている。そう書けばうっかりすると伝統的な短歌の主体論に回収されがちかもしれないが、いまいちど注意深く読んでみよう。はじめにあるのは「僕」ではなく「バイブス」である。名状しがたい共鳴の感覚がまず起こり、続いてその作用によってひとりの実感は少しずつ削り出され形作られていく。ただ、砂浜に書いた文字も砂山も波によってかき消され、夕焼けはわずかな時間しか保てない風景を残してすぐに溶け去ってしまうように、この実感はあまりにもはかないのである。そのはかなさ自体が個と呼ばれるものである、きみのバイブスというものがあるとして、「僕のバイブス」とのささやかな違いは波の周期のように生まれては立ち消えるもので、そういう精神や感覚の手ごたえ。これを認識の世界のできごとととらえよう。
「日々のクオリア」を数か月続けてみて、批評や感想を書くことがいかに体調とコンディションに影響されるものかわかった。いっそ短歌の創作のほうが、ある程度アウターマッスルに頼りやすい部分があって一定の出力や瞬発力を発揮しやすい(私の場合は)。どの単語を抜くか、差し込むかなど、どこまでが方法論でどこからが実験なのかは自分のなかでは折り合いのつけやすい感覚である。批評はそれに比べると、あたりまえだけれど他の人の書いたものにのめりこんで接近し追いついていかなければならないという焦りがあって、まさにバイブスを要求される。扱っているのが韻文だからそう思うのだろうか。
本書を読んだとき率直に、友達が多くていいなあとうらやましく思った。音楽には友達が必要である、ただしこの歌集は共感を経てバイブスに至る。認識の世界が存在すること、それは他人とも起源を一として避けようなくつながっていること(それはある意味刹那的であっても)を下敷きとして、作品が作られている。これはメロディつきの歌詞と、そうでない韻文との絶妙な差分でもあるのだと思う。「感覚」と「散策」の韻を入り口として、読者は「海沿いの感覚」に思いをはせる。「感覚」「散策」の韻はある印象を与え、探索、観察……というように、単語の横顔も見せている。「消そうとするとながれこんでくる」がまさに認識のあらわれであって、そういうものをくりかえし読むうち、心のなか、認識が訪れては消えて点滅しているあたりに、うらやましさ切なさが満ちてくる。手慣れた言葉でいうなら憧憬が海に広がっている。