『塔 TOWER』嵯峨直樹
戦争の風景を思わせるショッキングな連作「番組」が冒頭に置かれている。想定される時期・地域を特定するヒントはほぼないのだけれど、フィクションと読むにははるかに痛ましく、残酷で、身体的な痛みに肉薄していると思う。
建物の一側面があかあかと染まって何をちぎる泣き声
血の綾に深く抱かれ眠ってる近づいたとき骨が匂った
いっぽうで、喪失感や残酷さだけを書き連ねても戦争のすべてを書いたとはならないこと、中庭を掘り下げて作った泉からもう一度水を掬いとること、そういった使命をなにやら負うために作られた連作ではないかと感じられる。構成の美が、美たる宿命を忘れて凄みとなっている。集団における個人の死の意味、何に対して、何の理由をもって人は帰属意識を感じうるか。いわゆる丁寧に書く手つきとは異なる方法論で、美が哲学をわしづかみにしている。
現実の戦火は絶えることがない。しかしそれを確実に、十分に知るための手段が現実を措いてないことから、活字であれ、ニュース動画であれ、メディアがつねに代替として機能する。日本の国内で暮らす限り、戦争の記憶が年ごとに半減してゆくのはやむを得ないだろう。戦争詠もまたメディアのひとつであり、大きなテーマである。しかしメディアはつねに「過不足」の危機にさらされている。「過不足」のうち、不足と過多のいずれもが課題である、その意味でいずれもが欠落の可能性となりうる。メディアの抱えた重大な困難を、すみやかに引き出してしまったのが掲出歌だと感じた。
テレビ番組では、コーナーごとに秒きざみで非常に細かく予定時間が設定されている。ワイプ画面やテロップ、BGMでいくら複層的なにぎわいが与えられるとしても、これは究極的にはリニアな形状に収束するメディアであるに違いない。思想の展開はコースに沿って行われる。テレビとは、番組から番組、コーナーからコーナーへバトンを渡しゆくリレーである。この場合、手渡すバトンに埋め込まれた約束が「過不足」に対する「おそれ」といえるだろう。「おそれ」の感覚には孤立的なものと共感的なものがあり、この場合には後者である。単独行で感じるおそれは、個の創出と喪失をめぐるものであり、テレビ番組の制作のようにチーム体制の場合、集団の存続とか意義とか、そういうものに触れうる変化を感じたときに「おそれ」が生まれるのだと思う。先ほど書いたように、不足も過多もよろしくない。時間通りに、正しい分量でニュースの本質を視聴者に伝えなければならない。ああ、そんなことがありうるのだろうか。「おそれ」を共有する者たちは、かろうじてほそい舌を出す。時間通りに、約束通りにすばやくニュースが流れていく。困難と違和を抱えているのはだれしも同じであって、ただその共同体はなすすべなく、舌を垂らし続けているほかない。そして、「過不足」の宿命をまったく同様に受け入れながら、この作者と歌集がなお果敢に向き合い続けている点に驚きがある。ショッキングな単語や風景を選択することの重み、過多も不足も知りながら、知らざる事実があるゆえにつかみ取る。表現によって事象が掘り下げられるのと同じく、思想は確実にコースを外れて上昇している。危機を内部から受け入れ表現することで、「過不足」へのおそれとともに、これからの集団が取りうる可能性のひとつを明確に指し示していると思う。
