防腐剤入りのしおから レーニン廟 くさらぬという死にかた愉快

大井学『サンクチュアリ』

 

共産主義国家の偉人はその死後に死体防腐処理を施されて保存される例がいくつもある。ウラジーミル・レーニン(ソ連)、ゲオルギ・ディミトロフ(ブルガリア)、ホルローギーン・チョイバルサン(モンゴル)、ホー・チ・ミン(ベトナム)、金日成(北朝鮮)などがあげられるのだが、遺体を腐らせず保存することと共産主義という思想には密接な関係があるはずで「国の象徴」として残すことの裏には国民平等原則の例外、つまり一種の神として奉ることにより(神は国民ではない)、理論的罅(国民平等のはずなのにずば抜けて偉い人がいる)を修正する意図があるように思う。レーニンの遺体は未だに保存されながら、一方では保存をやめて埋葬するべきだという意見も根強いらしい。生前のレーニンはふつうに埋葬されたかったようで生者の意見の拮抗のうえをゆらゆらとただよいつつ現在まで本人の意思に反したまま保存がつづけられていることになる。

この歌が強烈なのはそんな「レーニン」が「しおから」と同じ扱いで並記されているところであるだろう。一首の言葉の置かれかただけをみれば「レーニン」と「しおから」は同価値である。「しおから」が「レーニン」より先に来ていることを思えばむしろ「しおから」のほうに重きが置かれている可能性すらある。

「くさらぬという死にかた愉快」もはげしい。結句を「愉快」で終えるのもはげしいし、その「愉快」が「くさらぬという死にかた」からもたらされるものだというのもはげしい。はげしすぎてしおからとレーニンに注がれるまなざしが氷のようなものか炎のようなものか、もうよくわからなくなってくる。楽しさからの順接によってやってくる「愉快」ではなく、やけっぱちからの逆接がつなぐ「愉快」なのだと思う。

レーニンは腐らない。けれど彼を腐らせないために多額の費用をかけて定期的な保存処理が行われていることを皆が知っている。ふつうにしていて腐らない遺体があれば、それはもしかしたら神なのかもしれない。が、ふつうにしていたら腐るものを処理によって腐らないようにしているのは、その遺体がただの人であることの証になる。お金をかけて腐らないままただの人である事実を衆目にさらされる偉人の姿を、人間の愚かさの見事な具現として眺めるまなざしの気配がこの歌にはある。

 

「我」という文字そっと見よ 滅裂に線が飛び交うその滅裂を

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です