こさめこさめ 永遠のその翌朝も朝顔日記は白紙のままで

『ねむりたりない』櫻井朋子

数日前の内山さんの投稿にあった朝顔の話が面白かった。私が自分で育てたことがあるのは義務教育のときだけだが、けっきょくどういう顛末になったのかあまり覚えていない。そもそもうまく育てられずに夏を越せなかったような気がする。だから花もつけなかった。それでもこれは十分に思い出として、いまこうやって書きだすことのできる話だ。そういえば、花のしぼり汁を使ってリトマス紙を作りたいと思い、楽しみにしていたのに。朝顔のたぐいのああいったフォルムとサイズ感、生長スピード、庭木や花壇と違って名前入りの「私の鉢」を所有できるという感覚が、ことさらにエピソードを強くするのだろうか。

掲出歌もまた「私の鉢」にまつわる。朝顔の観察記を嬉々として書くことのできない子供だったなら、この種の戸惑いは身に覚えがあるものだろう。朝顔の観察を毎日つづけたとて、そううまく葉が開いたり丈が伸びたりするものではない。いちおう教科書通りにやってみたところで失敗することもある。たいして見た目の変わらない朝顔について記録をつけて評価をしてもらうというのは、幼い技術では苦しいものだったりもする(いまならまずまずやってのけるけれども)。

こんなふうに細かく書かれてはいないので、どういった理由かは決められないけれど、掲出歌の日記は何も書かれずに白紙である。ただし白紙の「まま」とあるところから、本当は日記が書かれなければいけないこと、書くつもりはあること、今日から明日、明後日と日々が持続してゆくことが示唆されている。そうした日々におけるやむにやまれぬもどかしさ、思い通りにならないつらさは、現実を生きる個人としての人間が持ちうる感覚であるだろう。かたや「永遠」とある。「永遠」は個人がもつことのできる感覚ではない。これは形而上にだけ存在する概念だ。そして「翌朝」とあって、一度「永遠」を経たものが、もういちど現実の時間を引き受けている。この操作によって、現実とその他世界との接地面がうまれている。人は「永遠」を読むことはできないが、「永遠のその翌朝」と書いてあれば感知可能になる。「朝顔日記」という存在が一人きりの日記でなく、かならず読む人の存在を前提にしているところも、通常の日記とちがう特殊なところである。ちょうど「朝顔日記」が教師から生徒へ手渡されて評価される対象であるように。日々もまた、どこかかなたからじかに手渡され、受け取っていつか提出すべきものであるように感じられる。
そう考えると、「白紙のまま」という現象は、一方ではやむにやまれない事情があるのかもしれないが、もしかすると、ささやかな反抗の気持ちも含んでいるのかもしれない。いつまでも、永遠に至るまでも白紙であったとして、それが何かとくだんよくないことであるのか、というような。こうした個人と世界とのやりとり、かけひきの状況が、小雨の降るような物静かな室内で、しかしほんとうは嵐のようにダイナミックに巻き起こっていること。精神という場においては、ささやかなありようこそが、もっとも巨大であることまで気づかされるようである。この夏に朝顔の鉢を見つけたら、私はきっと空を見つめて立ち止まってしまうことだろう。

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