三枝昻之『遅速あり』
「五年 高血圧の薬服用を始める」という詞書がある一首。五年は平成五年のことで、こういう年月の記載があると何歳ごろの話だったのか頭のなかでおのずと計算がはじまってしまうのはどうなのかという気もしつつ、三枝昻之が五十歳前後のころの出来事だとわかる。この連作がかつて「短歌研究」で特集された「平成じぶん歌」というシリーズのためのものだったことを考え合わせれば、あえて作者に引きつけた読みをすることもまあありなのでは、と思ったりもする。こういう外部情報が歌の読みの役に立つのか立たないのか、読みを阻害するものとなるのかはさまざまだと思うけれど、この歌に関しては薬を服用するに至る身体の変化が特殊だったり急激だったりするのではなく標準的かつ漸次的な変化だったろうとその年齢からだいたい推察することができる。
一首のうちには感情がうねるような闘病生活というものからは遠く隔たった物音のなさが感じられる。てのひらはやわらかく、硬い一錠をのせても音は立たない。逆に地面は硬いがそこに散るものは軽くこちらもほとんど音はしない。音のなさが病による現時点での苦しみのなさとなんとなく結びついているような気もしてくる。としても高血圧の薬は一度始めたらその日以降一生服用を続けなくてはならない類のものであるはずだ。この薬と無関係の日常が今日をかぎりに終わるということ。そのことがひたひたと寄せている。
「てのひらに一錠のせる」はてのひらと一錠とのはじめての接触である。また、金木犀の花と地面というものもこの秋にあってはじめての接触である。今まで出会うことのなかったもの同士が近くでも遠くでも出会っている。てのひらの一錠は今はただの一錠にすぎないけれど、これからの生涯に服用するだろうおびただしい数の錠剤の呼び水となるものであり、まだ見ぬおびただしい数の錠剤はそのまま地面というてのひらに散りばめられたひとつぶひとつぶの金木犀の花となってもう世界に表れているのだと思う。つまり、てのひらに錠剤をのせた今この瞬間とそれ以降の生涯全体が本来なら有り得ないかたちでもって歌のなかに接触している。接触のバリエーションが積み重ねられた結果、まったく見たことのない世界が読み手の前に広げられている。