『霧のメロディア』松本千恵乃
短歌はだいたい三十一音を基準とするとともに、含むことができる情報量もある程度きまっているように感じられる。連作として作らない限りは、またこういった一首紹介という制約の中では、小説の登場人物のようにあまりこまごまと外見を説明したり、緻密な家系図を何ページにもわたって一から十まで書いたりというわけにはいかない。いっぽうで、情報量が限られるからといってそこに含まれる時間や空間のスケールが一定というわけではない。走り高跳びや滝の落ちる瞬間を素早いシャッタースピードで切り取る(かつ残像の余韻を含みながら)とか、過去のどこかの時間帯を完了形さながらに持続させるといったことは、むしろ短歌の得意技である。その意味で、「時間」それ自体を示す情報量は、その内容が長かろうと短かろうとつねにだいたい三十一音以内でカバーできる程度には一定なのだということもできる。
いい歌、秀歌の観点が、そういった定型の特性をつよく差し出して成功していることにあると仮定しよう。掲出歌では、「四、五秒」と限定されている。目をつむって、五秒数える。
思いのほか長く感じられないだろうか。集中していてあっというまに三十分、一時間たっていることもあれば、この五秒は思い返せば長く、豊かな五秒となるものである。「檸檬の花を初めて見る」はこのとき間接話法であるので、ここでは言葉によるよらないを問わず、咄嗟のコミュニケーションが数度やり取りされたものと思われる。短歌が書くことのできない玄関ごしの風景に、檸檬の木だけが映りこんでいる。写真や動画ではないので、その形状をあらかじめ知らなければ、「檸檬の花」がどういった花なのかはわからない(反対に、写真や動画であれば、その白い五弁花が「檸檬の花」であるかはキャプションなしにはわからないだろう)。
宅配を受け取る時間はたぶん以前よりも短く簡略化されていて、それは配送する荷物の絶対量が爆発的に増加しているためだ。というかけっこうな割合で、受取人と配送の担当者は顔を合わせることすらない。そんな現代の事情がこの「四、五秒」には込められているけれど、目を閉じて呼吸をしながら数を数える間はまったく無視できる。五秒間生みだされた暗闇に、何色だかわからないけれど確実にさわやかな花の像が、少しだけ早口のやりとりとともに想起される。まるで、現実の裏付けが夢であることを証明するような瞬間といえるのかもしれない。