時本和子『運河のひかり』
後天性眼瞼下垂はこの歌ではじめて出会った言葉で、主にまぶたの筋肉の腱がゆるんでしまうことによってまぶたが下がってしまう状態を指すようである。まぶたが下がれば見た目に影響があるのもそうだし、ものが見えづらくなることもあるだろう。何よりいつもと違う状態になっていることの不安は大きいものだったと思う。そうして眼科に行って言われたのが「むかしはみんな垂れたままでした」。これは、「だから心配しなくて大丈夫です」という安心材料の提供にも聞こえるのだが、「なのに病院に来たんですね、心配性なんですね」というちょっと尖った発言にも聞こえてくる。ホログラムのように言葉が見る角度によって色合いの変化を起こす。とはいえ、「むかし」「みんな」とものすごく大雑把な言葉づかいの医者であるとは思うし、「かくも言ひたり」にはそうした物言いに若干カチンと来ているような語気が感じられる。
しかし歌としては非常におもしろく、「むかしはみんな垂れたままでした」のほぐされた日本語があり「後天性眼瞼下垂」の硬く凝縮された日本語があり「かくも言ひたり」の別の方向で引き締まった日本語がある。さまざまな日本語の感触がまざりあってわいわいとしている。病院は大病院であればもちろん町の内科や眼科でもそこはかとなく死の香りがする場所であるだろうと思う。だからこそ生身の人間たちのやりとりのひとつひとつが妙に反響して聞こえてくる。掲出歌は「睡蓮」という連作の一首なのだが、この次の歌もおもしろい。
明日まで待たされるかとおもつたと言ひて老女が受け取るくすり
「明日まで待たされるかとおもつた」、これを皮肉ととることもできるし、あるいは長年通った医院の馴染みの職員に対する甘噛みのような冗談ともとることができそうである。いずれにしてもなかなかのクリティカルヒットだと思って笑ってしまった。言ってやろう言ってやろうとタイミングを狙っていたと読んでも虎視眈々ぶりがおもしろく、とっさに繰り出したアドリブと読んでも老いの肉体から発せられた言葉の切れ味が見えて楽しい。そして楽しさの背後にはやはりそこはかとない死の香りが手を伸ばしているのもこの歌のふくらみになっているだろう。病院のなかの出来事はどうしても死の世界から逆算される。この逆算が一瞬の戯言を思いのほかに反響させるのだと思う。
玄関に掛かる「睡蓮」の複製を二年もたつころ夫が褒める