𠮷田恭大『光と私語』
この歌には味のしないガムのような味がある。もともとは味があって噛んでいるうちに味が薄れてなくなってしまったガムではない。もともと味のないガムの味であるのだと思う。路地があって、猫がいて、猫を追う君がいて、猫を追わない僕がいる。そして僕は君に、君のことを追わない僕を気にしないで存分に猫を追うことに集中してほしいと思っている。と散文にすれば不思議と味が備わってくるのだけれど、それではこの歌の味のないガムのおいしさが消え去ってしまう。言葉のつながりがおのずからストーリーへと向かう推進力を、言葉をつなぎながらどうにかこうにか消していこうとする営みがこの歌の醍醐味なのだと思う。
路地、猫を/追う君を追わ/ない僕を、/気にしなくても/いいから、猫を
句跨りの多用によってこつこつと意味の勢いを削いでいく。そこに裏拍のように読点が入り込みさらに意味の勢いを削ぐ。これだけでも十二分にウルトラCなのだが、そこにとどまらないのがこの一首である。
短歌において意味は重心から発生する。重心の源は「僕」である。「僕」を中心にそこから放射状にさまざまな現象が広がっていくのが基本的な歌のかたちでそれはそれなのだが、掲出歌では「僕」が世界の中心にならないように最善の注意が払われている。
「路地、猫を追う君を追わない僕を、」がそのポイントになっていて「猫を追う君」をなぞるように「君を追わない僕」が出てくる。これは対句といえばそうなのだけれど対称関係を強調しているということより、「君」と同じように「僕」があることを支える表現になっている。「君」は路地の風景におけるただの点であり、「僕」も同様に風景を統べることのないただの点となる。猫も点、君も点、僕も点、となってそれぞれの点が同じくらいの重量をもって風景のなかに転がっている。結果、「僕」はまんまと世界の中心から逃げおおせる。「を」の引き戻すような引力もあいまってこの歌は中心になるポイントがつねに撹拌されている。その撹拌によって、これまでに味わったことのない味のない味が読み手の口に広がっていく。確実に短歌の範囲拡張に成功した一首であるのだと思う。
ここは冬、初めて知らされたのは駅、私を迎えに来たのは電車