『貴妃の脂』黒木三千代
羊皮紙は文字通り羊など動物の皮を使った紙状の素材で、雁皮紙は雁皮という植物を漉いて作った和紙である。すごいなと思うのは、「羊皮紙」は紙ではないし、「雁皮紙」は雁の皮ではない。「羊皮紙」のなかで正しいのは「羊皮」のぶぶんで、「雁皮紙」においては「紙」となる(「雁皮」が植物の名前だとすれば通る話だが、「雁」と「皮」に分解してしまえばやはりべつの生き物だろう)。物質が、互いに別々の側面から言葉にそむいているというか、原料+用途という組み合わせの法則に基づいて、音韻変化や比喩の展開のなかでそれぞれの素材はこういう名前をもつに至ったのだけれど、その別々にいきわたったプロセスが結果として似たような名前を物質にあたえていることが、言葉の強引な膂力のようなものを感じさせる。
そうしたプロセスや内情について縷々と書きたくなるところ、「血垂らぬ浄さ」と短い指摘でことごとく言い終えてしまっているところもいい。これもまた、言葉の特性が強く作用しているものだと思う。
苦しさの酢とくやしみの塩を置く水火の地獄ここのみ根拠
塩・胡椒、星ふるごとき夕映えのヒレステーキが焼け昏みゆく
皮そぎて酢水に晒す牛蒡はたゆらりかたぶく百済観音
『貴妃の脂』にはじっさいの場面に基づくような厨歌もいくつか収録されている。ふつう、厨歌や食事の歌は、読むとおなかがすくくらいに美味しそうに書くことが大事なのだと思う。命と食事とのつながりを普段感じるよりも強く恍惚と輝かせることが、短歌に息を吹き込むのだろうと思う。ただ、黒木の厨歌はおどろくほど美味しそうではない。まずそう、貧しいということでもない。読んで味わうほどに、明晰になってしまうというか、空腹のような身体的な制約が世に存在することをいったん忘れてしまう。「塩・胡椒」とここに書かれた何かの調味料らしき物体は、すぐさま星ふる夜空の光景と溶け合い、唐突な「ヒレステーキ」がむしろ強烈な違和となる。本当はキッチンやダイニングにいるはずだから、星ふる夜空のほうがより遠い存在であるのだが。何かの調味料らしき物体が、この人から見た世界に対する違和を抽出するための仲立ちとなり、猛然と浮かび上がっている。同様に夕映えも、ヒレステーキもあらゆる事物が葛藤となって、この人を取り囲んでいる(そういえば、「星ふる」と「夕映え」もほんらいリンクするはずがない光景を絶妙につないでいるのだが、この操作によっても、言葉の側に優位な世界がうまれている)。「地獄」を「根拠」と指さしているのも不思議な展開だなと思う。「苦しさの酢」は苦いのか酸いのか。歌意をどこまでも明晰にたもちながら、さまざまなテクニックや言葉のあらゆる機能が駆使されていることに、一時、肉身から救い出されたような喜びを覚える。