棘あをきからたちの木をけふ知りて呟きぬからたちのかげでないたよ

横山未来子『とく来りませ』

 

歌詞というのはおもしろいことにメロディーに乗った瞬間から意味が溶け出す。特に子どもの頃に覚えた童謡は歌詞というよりほとんど音として口に残される。たとえば「紅葉」。「秋の夕日に照る山紅葉」は「あきのゆうひにてるやまもみじ」でありメロディーに乗せると「てるやま/もみじ」となる。「てるやまもみじ」のことは知らないけれど、とにかく「てるやまもみじ」と歌い続け、何十年か経ってから「てる/やまもみじ」だったのだと気づく。たとえば「蛍の光」。「何時しか年も、すぎの戸を」は「いつしかとしも、すぎのとを」であり意味も分からずその音を咥えこみ何十年か経ってから「過ぎ」と「杉」が掛詞になっているのだと気づく。このように童謡は二度おいしいのだが、二度目のおいしさが何十年後かに突然やってきたりするから油断できない。

歌の話に入る。「からたちのかげでないたよ」は山田耕筰作曲、北原白秋作詞の「からたちの花」の終盤に出てくるフレーズである。この童謡の主役はからたちだけれど、からたちという植物を知らないでもこの歌は歌えるし、そうやって歌いながらこの歌にこころを持っていかれることだって十分にあり得る。童謡というのはそうした曖昧さを含んだままひとつの完成品として存在してしまえる不思議な性質のものだと思うのだけれど、これは童謡という一ジャンルに限ったことではなく、やはり日本語それ自体が含みもっている曖昧さでもあるのだろう。

からたちを知らずに「からたちの花」を暗誦し、おそらく数十年後にからたちに出会って実物を知る。ああ、これがからたちか、と知ったとたん遠い昔に覚えた「からたちの花」が身体からおのずと湧き出してくる。幼い頃の自分とそこから数十年隔たった自分がひとすじの歌詞によってやわらかく結びつく。一人の人間はさまざまなタイミングの過去と現在が縦横に組み合わさって出来あがる織物なのだと思い知らされるのである。

じつは「からたちの花」の正しい歌詞は「からたちのそば・・でないたよ」である。だけれど、「からたちのかげ・・でないたよ」という覚え間違いの記憶が、童謡の曖昧さを、また人間という織物のおぼつかなさを無意識に/丹念に示しつつ、読後なぜかしら温かいものに触れたような気がして、ふいに泣き出してしまいたくなる。

 

眩しむやうにかなしむやうにあふぎみる雲のすべてが押されゆく空

 

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