阿波野巧也『ビギナーズラック』
短歌の文体というものはそのときの心境のようなものによって多少は変わるものでもあるのかもしれないけれど、結局は体つきのことであると思う。体つきはそのときそのときで変化するようなものではなく、変化するとしてもそれなりの長い時間をかけて変わっていくものである。その意味でいえば『ビギナーズラック』の体つきは一冊のなかでとくに変わることはなく、その体つきも見るからに筋肉質だったりすることのないいたってふつうの体つきをしている。定型という場所はおそらく日常空間とは違う圧力がかかるところであるので、その圧力のなかでも生きられるように体つきにはなにかしらの変形が要請されるはずなのだが、『ビギナーズラック』一冊を見渡すかぎりふつうの肉体でこともなく歌が立っているようにぱっと見はそう見える。
三匹の犬は散歩の途中に出会ったのかもしれないし、ペットショップで見かけたのかもしれない。茶色と黒と白とか、そういう感じでそれぞれの犬の柄が違っていた。犬たちと見つめ合っている渦中では三匹ひとかたまりとして認識していたはずである。が、犬たちと別れてややあってふとそのうちの茶色い一匹だけが浮き出てくる。そして、そうかあの茶色いやつそういえばさっき一番こっち見てたなと気づく。時間の流れに自身の認識が洗われ、整っていくまでをこの一首は前述したような一見ふつうの体つきで叙述している。「ぱっと見」とか「一見」とかここまでにちょろちょろとエクスキューズを入れてきたのは、この歌にもやはり圧力による歪みは生じていて、それは上句と下句のあいだにある一字空けである。この一字空けは時間の経過を示しつつ歪みの源となる隙を定型という場所にあえて与えているはずである。結果、上句「見つめてる」の現在と下句「見てた」の過去が出現する。一首の時間は上から下に流れていくのがオーソドックスだが、それが逆流する。逆流しつつ一首の体つきはやはりなんでもないようなかたちで立っているのである。
こまかいことを書いたけれど、この歌は最終的にはかわいい、に落ち着く。こっちを見ていた茶色いやつが元気に暮らしてくれればそれでいい。会ったこともない犬にもかかわらずそんなふうに思ってしまうのはこの歌のちからゆえである。
公園に白いつつじがつつましくひらく力のなかを会いにいく
