万象のかど確かなる冬の日を溶けたるやうにま鯉ら見えず

『草の譜』黒木三千代

前にも引いた「生き行くは楽しと歌ひ去りながら幕下りたれば湧く涙かも」(近藤芳美)が異様に感動的であるのは、主観と客観がスイッチする瞬間を間髪入れずにきりとっていること、そうはいっても両者があまりにも見分けられぬこと、近代における個人がいかに確固として、なおかつ儚いものかを言い当てているからだ。この人はステージを見ていて、それも人生や生涯を照らし出す歌劇のようなものであるとわかる。ほとんど幕引きの間際、ステージ上の俳優が袖に去ってゆく。幕が下りてしまえば、それまで俳優と同じステージに没入しきっていたこの人はふたたび客席に戻ってくる。座っている座席も、劇場の位置もなにひとつ変わらないのに、この人の存在する地点は、ただひとつのステージからあまたの客席の一員へとたちまち変化する。その変化に気づき、ただひとつ存在していた舞台のストーリーが観客の一人ずつのささやかな個人的な記憶に置き換わったことが認識されたとき、ストーリーに浸ったままの主観と、じしんを含めて客席を見下ろす客観の視点がとっさに交錯し、感極まった涙となって表現されている。

近藤の舞台はあきらかな非日常(ないし、その前後に描かれる終戦後という日常)であるが、そうした見るからに大きなイベントがなくとも、ふだんの生活にも客観という視点が存在している。『草の譜』でその役割を負うのは池の鯉である。じしんの視点を通してさまざまに世界は変化しているが、鯉はとくだん個体を限定することもなく、しかし同じ水場にいつも数多く集っている。

鯉溜こひだまりふかきところにまろび入りまどろみ長かりし蓮の実ひとつ
泥吸つて吐いて泥喰つて太る鯉 沈砂池といふ夢の中みち
翳り合ふ生きもの鯉は 水中に交差するとき少し死ぬらし

このようにして世界を眺めるとき、この人が鯉になるというよりも、鯉を通した世界がある、ということが強く意識されているように思う。世界のありようの一部が、足下の池に再現されている(そういえば鯉を見あげる機会はあまりなさそうだ)。そのとき、再現された世界に佇んでいるのは、この人の精神というよりも、この人の背中である。鯉を通して背中を眺めることで、視点は複雑化し、しかしより現実のありように近づいていく。

掲出歌で「冬の日」になんだか身の回りのものがやたらくっきりとして見える感覚は、その通りだと思う。対照的に冬になると池の鯉は冬眠モードに入るのか、姿を見せなくなる。「こいのぼり」とかに表される勢いの象徴ではない鯉のすがたが、まずはこの歌の見どころ。また、さまざまなものがくっきりとして見えるという体感は主観に由来するが、世界を広く見渡したり、鯉を眺めるときの視点は自分じしんを含んでおり、かなり客観的な様相でもある。このあたりのスタンスが、『草の譜』では過去を振り返る場合や、各地の紛争について記載するさいにも効いており、かたわらにあるのはすなわち鯉の池なのではないかと思うのである。

==
木曜のお休み分を午後にもう1本上げます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です