会いに行こうと思ったことはあるけれどそのたび膝に芙蓉が咲いて

『往信』佐々木朔

ノスタルジーにもつながるよい歌だなと思う。「会う」の定義はけっこう微妙であって、それは昔ならば足ないし交通手段でもって当人の居場所へ向かっていくしかない。近代文学もしばしば会う会わない、約束がどうしたどうなるという緊張感によって筋が運ばれていくような気がする。

梅田の停車場ステーションを降りるや否や自分は母からいいつけられた通り、すぐ俥を雇って岡田の家に馳けさせた。岡田は母方の遠縁に当る男であった。
(夏目漱石『行人』冒頭。ルビは適宜省略)

現代では、文字による通信が即時のものとなり、電話をかければ話すことができ、表情を見ることもすっかりその延長というか、同様の機能になった。対面で「会う」ことと、通信手段によって会話することの違いが少なくなった。そのためにかえって、そのわずかな違いが非常に濃く強く、淡々と説明するのは少し困難に感じられるほど生々しいものとなっている。間合いや呼吸といったものが、対面で「会う」ことに残された要素なのだろうが、数えうる情報量としては限りなくゼロといってもいい、食塩水に対する純水のような状態に対してそこまで激しい反応が生じてしまうことに私はときおり動揺する。

脱線が長くなった。掲出歌ではべつにそういった生々しさを打ち出してはいないのである。「会いに行こう」という思いは、切実でありながらどこか風の吹きぬけるような喪失感、寂しさと孤独を通じた一種の幸福のようなものが一体となって、ふわふわと雲の形になっている。これが現代の「会う」ということだと思う。このときの会いたさは、膝のお皿が芙蓉の大きなひらひらの花に置き換わることでくじけてしまう。このとき「膝」もまた、芙蓉の花ほどの重さとなってじっさいの人体の重量よりもずっと軽く感じられる。転換点となる「けれど」もきわめて散文のように妥当に使われることで、自然なあしらいとなっている。歌の重心は巧みにあやつられながら肉身の重みを離れ、より「会いたさ」という感情の繊細な強さ、やるせなさが美しく抽出されていると思う。

僕はねむっていたいだけだよ目薬のやたらと安いドラッグストア
ブランコのある公園がブランコのない公園に向きあっている
待ち合わせのオブジェときたら虚無的でその虚無の曲線にもたれる

ここに並ぶ「目薬」はドラッグストアの精霊である。なぜならばドラッグストアの性質として、良いものを安く販売するという概念が含まれているから。「目薬」がドラッグストアを体現し、その純粋な事実を通して純粋な眠り、眠たさ、欲求がここに引き出されている。ブランコのありなしという差分によって、公園からはより公園らしい空間がにじみだしており、オブジェは抽象度の高い、しかし想像をかきたてるような虚無に満ちている。「ノスタルジー」という表現から雑念を除きたい場合なんとよべばよいのかこの文章を通して私は苦心したのだけれど、『往信』はそのためらいをはるばると通過するような、心のもっと自在な一面を示していると思う。

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