大滝貞一『雪螢』
この頃の大滝貞一の作品は感覚の地殻変動がちょくちょく発生しているものが多い。地殻変動というと大きなエネルギーとそれに対抗するエネルギーの間でがたがたとした運動が起こるのが通常だが、大滝作品の地殻変動はそうしたがたがたがない。きわめてスムーズに別の次元へ感覚が移っていく。
春になって茂りはじめた芹を摘む。成長しきってしまえば茎葉の繊維も発達して、食用にするには難があるのでまだやわらかい春の時期に摘まれるのが芹である。根っこごと引き抜いて収穫したものは水洗いして下ごしらえが行われる。向きを揃えて白い根をあつめて洗って泥を落とす。「芹の」「白根」「揃へ」の三音三連続かつ三句目字余りにわらわらと伸びた芹の根の、水になびいて手にまとわりつく感じが表れているわけだけれども、下句でそうした日常瑣事から感覚が一気に「夭き死」へすり替わる。飛躍していくというニュアンスよりもすり替わるというほうが馴染むようななめらかさをもって、普段使いの目が幻視する目に変わる。白くて繊細な芹の根として見ていたものがあるところから露わとなった神経叢に変化する。「夭き死」はもちろん春に摘まれた芹のことであるとも読めるが、洗われている時点の芹はまだ生きているからそうした読みをすると「夭き死」はやや先走った表現ということになってしまう。それよりかは幻視によって剥きだしにされたうつくしい神経叢をあらゆる若き生の終わりの象徴として読み取りたい気持ちがある。また、この時期の大滝貞一の目の性質を考えてもそのほうがふさわしい読みなのではないかと思う。
ステンドグラス夕映えの中に輝けりわれも透かさるるあからさまにも
『彩月』
はななづな菁菁と白き風を呼び母が枕べへも咲き続くなり
『白花幽』
『雪螢』の前後の歌集から引いた歌だが、夕映えのステンドグラスを感覚するのとほとんど同じタイミングで自身も硝子質になっていくのであり、外界に点々と分布していたなずなの花がその点々のリズムを保ちつつ母の寝室まで生え及んでくる。やはりここにも言語優先の飛躍というより感覚優先のすり替わりが起きているように感じられる。「ルビンの壺」が「壺」から「向き合う二人の顔」に切り替わっていく、そうした切り替わり、すり替わりが、本来であれば発生し得ない日常風景のいたるところに起きているのがこの辺りの歌集におさめられた大滝作品の特徴であり大きな魅力のひとつなのではないだろうか。
