荻原裕幸『永遠よりも少し短い日常』
いい歌を読んでああいいなあ、と思うときそこには理由などなく「良さ」がじかに飛んでくる。ただ、その良さを人に伝えようとするとなると、何らかの取っ掛かりが必要になるわけだが、この歌の取っ掛かりになると思うのは影の質感の説得力である。この歌の影には少しだけ重さがある。重さと言ってもいいし、たぶん湿りけと言ってもいい。この重さまた湿りけのでどころは初句「からつゆの」で、漢字で書けば空梅雨、雨の降らない梅雨であり、言葉の作用を言えば湿りけの見せ消ちである。さらに言えば「つゆ」と書かれたときに発生するはずの湿りけは「から」であらかじめ消されたように見えるが、それは初句から追い出されただけでおそらく二句目以降に逃げ出している。逃げ出した湿りけは二句目から結句にかけて希釈されながら生き延びている。句切れのない一首だからか、湿りけも二句目以降生きやすそうである。さらに「わたしの影」でなおいっそう生きやすい。これが「わが影の」などであればけっこう厳しかったのではないか。「わたしの影」のぼんやりと引き延ばされたような六音が湿りけの生き延びる手助けをしているように思われるのである。だから、「見知らぬ人に貼りつく」の「貼りつく」に奇妙なリアリティが宿る。貼りつくには湿りけが要る。ここまで息の根を止められずに温存された湿りけが結語で見事な活躍をして、一首を輝かせている。湿りけの恩返し、と言いたくなる活躍ぶりである。
この一首に出てくる影はほとんど人間から生まれた妖怪のようになって見知らぬ乗客にぺったりとその身を預けている。乗客は大人だろうからその妖怪を見ることはないし、気づかない。一方、歌のまなざしの持ち主は人に貼りついたものをきっちり見つめている。一首全体にただよう緩急のなさも相俟って、そこにはあどけないようなまなざしが垣間見える。「からつゆ」のひらがな表記も「見知らぬ人」という主観表現もこの歌においては余すところなくあどけなさに資するものになっている気がする。表立ったレトリックは用いられていないのだけれど、歌の呼吸というところで静謐かつ微細な動きがすべて歌の核心を活性する方向に働いていて、きわめて有機的な一首なのだと思う。
ゆびでぱちんと弾いてみたい形よきおでこが冬の電車に揺れて
