『天の螢』佐竹彌生
※引用元は正字使用
この歌ではないのだけれど、こんな歌を読んだときに思ったことがあった。
分水嶺きみが栖とわが栖左右に青き水くだるらむ
夜もふかみあをき振子よ茫然とゆめのすみかを行き還るなり
もろもろの音なるかなた白金のコイルのごとく人のこゑほそし
(いずれも引用元は正字使用)
短歌でAとB、AまたはBという対立や対比の修辞はかなりオーソドックスであるけれど、それがどうして心地よくおもしろく感じるのかを深く思ったことがなかった。それほどに、なじみよい姿をした文体なのだと思う。分水嶺(現実にまのあたりにすることはまれで、多く地図上にイメージされるもの)を境に住み処が分かれ、「左右」に想像の水が流れていく。このとき青さは特定の色を反映したものではなく、脳裏から浮かび上がる想像の青色である。次の振子も青色をしているらしい。やはり、住み処もまた「ゆめ」にあるものだとわかる。「ゆめ」と「ゆめ」、見分けようない二点のあいだをまさしく茫然と、本当は何色でもないかりそめの青色の振子が往来している。夜がふかければなおのこと、振子の動きは目視しづらくなり、もはや視覚に頼ることなく運動を感知するのみの世界が広がっている。
この振子の運動、AとBを行き来する大きな揺らぎ。こうしたものが韻律の重力に従って生じたときの心地よさが、短歌における対立や対比という修辞の正体なのではないかと考えた。言い換えるならばAとBが本来的に対概念かどうかは問題ではない。あくまで振子運動をトレースして見せることができればよいのであって、その内部に動きを感じられるかどうかが、作品の成否につながっていると思う。引用した三首は連続して収録されており、この延長で読むとき、「もろもろの音」と、〈白金のコイル〉のような「人のこゑ」との間にも、まだ揺らぎの残像が待機している。ノイズの重みを逃れ、白金のようなか細い声が、ただひとつしんと鳴り響いている。
掲出歌では「死」と「生」というもっとも大きな振子の動きが「死にゆくほかなき生」として媒介されている。「生」とはすなわち「死にゆくほかなき」ものであって、「死」から完全に切り離された状態のことではない。その最中、あるいは移り変わりの最後の局面に持ち込めるものは「わづかなる水」である。この軽さ、しかしゼロではない重さが、ゆっくりとした運動の状態を招きながら、どことなく心を軽くしてもくれる。佐竹彌生は1933(昭和8)年鳥取県生まれ。山中智恵子ら前衛短歌の影響下にあり、しかし日々の情緒もさまざまに織り込まれた作品だと思う。今年五月に刊行された『佐竹彌生全歌集』に収録の第二歌集から取り上げた。