北山あさひ『崖にて』
自身の身体のどこかが肉親に似ていると認識するとき、単純にうれしいと思うことはほとんどないのではないかと想像する。よっぽど仲の良い親子であればそういうこともあるのかもしれないけれど、たいていは愛憎半ばする気持ちに諦念のようなものも混じりつつ何とも言えない感情が湧いてくるものなのではないだろうか。こうした相似には「わたし」が「母」に似ているという順番しかない。「母」が「わたし」に似ているという順番が出てくることは除外例なくどこまでいってもない。逆らいようのないどうしようもなさである。しかし、この歌のわたしは母のひとさしゆびを知っている。自身の身体の根拠である母のことは十分によく知っている。ここまでであったなら、肉親と自身との照らし合いによる屈折を感じさせる作品ということになるのだけれど、この歌には先がある。
「もっと巻き戻せばだれのゆび」である。自身の身体の根拠となる母にも両親がいる。その両親にも両親がいる。三世代前くらいまでであれば実際に交流があったり、なくても名前を知っていたりするかもしれないが、四世代五世代前になってくるともう顔も名前も不詳である。「誰か」としか言えない人が自身の身体の前提として存在する。そして自身のひとさしゆびを母に似ていると認識するときその行く手には曖昧模糊とした誰かのひとさしゆびがあり、そのひとさしゆびは自身のひとさしゆびのかたちを借りてよみがえる。
だとしても相変わらずその誰かの顔はわからず名前もわからない。照らし合いによる屈折をもたらすべき相手はただの闇でありただの透明であるからもはやこちらを照らしてこない。成し遂げられるはずの屈折は下句に至って無化され砂のような感情に辿りついている気がする。諦めの尾は曳きながらそれでもたださらさらと乾いた砂を見せてくれるのである。煮詰めるというのはどろどろとした行いだが、煮詰め切った先にはさらさらとした感触の変容が待っているのだということを、ふと希望に準ずるもののようにも錯覚しそうになる。
顔面で受け止めている波飛沫ろくでなしの子はろくでなし
