倚る壁のしづけさに眼をつむるとき霧なるわれを壁は堰きゐる

『声影記』小原奈実

この歌で「われ」が霧になったのはいつなのだろう。すなおに状況を思い浮かべるならば、意匠のほとんどない壁面にもたれているこの人がいて、心を落ち着かせながら目をつむると自分が霧になったような心地がした。その霧になった自分を壁が堰き止めている。ということになる。だが細かく見ていくと、〈壁に倚る〉〈壁に堰き止められる〉という二つの表現は人が体をもたせかけるという同じアクションをそれぞれ言い換えたものである。つまり状況はなにひとつ変化しないまま、分離器にかけた言葉だけが層を分けて抽出されている。「眼をつむるとき」の「とき」がこの歌で必須なのである。あたかも目をつむったからこそこの人が「霧」になったかのように見せかけながら、同時にすでにこの人は「霧」であったという解釈も不可能ではない。必要にかられて素朴に作文したい場合、目の前になんらかのアクションがあり、それを逐次的にテキストに書き起こす、さらにアクションがあり、書き起こすということを積み重ねるような方法が通常取られるだろう。ふだん書いているような文章は、その意味でビジネス文書とそれほど大きな違いはなく、おしなべて議事録の親類である。だが小原の作品では、そうしたPDCA的なありかたはいったんわきに置いて、言葉の方面から、状況をいちからたどり直すという方法がとられている。なぜそうした操作が可能になるかといえば、短歌は韻文であるからだ。言葉のもつ因果は韻律により拡張され飲み込まれ、リズムの中で現実のあるべき逐次性をつかのま超越する。その一瞬の恍惚のきらめきは『声影記』においてなんども繰り返し見出される。

脳に思惟ともるごとくに藍さしてふかみて褪せしのちもあぢさゐ
身の芯を引き抜くごとき飛びやうの抜ききつて死ぬ蜻蛉とんぼのあらむ
その雨の一滴を見よ 錆びながら仮にも燕なりしこころに

各章から一首ずつ引いた。「あぢさゐ」や「蜻蛉」は〈イメージ〉にあたるものだろう。ただ本質は、イメージをただちに巧みに描写しているということにとどまらず、言葉の階層をくりかえし上り下りするような操作、これにより〈イメージ〉が所詮は現実の脳に生じたまぼろしではないのかという疑いをどこまでも直視し超越しようとするようなスタンスにあるのではないかと考える。そのまなざしが見据えているものは、たとえば雨のたった一滴であり、まなざしをもつものはかつて「霧」であったように「燕」として生まれたこころである。『声影記』にはさまざまな動植物が描かれ博物誌的なおもしろさも伴いながら、そういった図画を採用したことで、より現実を深く確かめようとしているのではないか。

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