前田康子『おかえり、いってらっしゃい』
引用歌を選ぶときには前後のことは考えていないのだが、結果として前回同様に母をモチーフとした作品になった。色を指し示すとき、赤とか青とか黄色とか言ったり書いたりするものだけれど、「はつゆき」には「白色」だとこぼれてしまう色合いがあり、「けいとう」にも「赤」では捉えきれないニュアンスがある。そう考えると人が感受する色彩というものは純粋な色味だけではなく「はつゆき」であればその頼りないような存在感や季節の変わり目の体感が、また「けいとう」であれば花のごわごわとした手ざわりやびらびらとした厚みが純粋な色味に統合されてはじめてそのものの色彩が生まれていく。赤や青といった言葉が統一規格だとすれば、「はつゆき」や「けいとう」という言葉の色は一人ひとりの体験が重たく乗った歪みのあるものだと思う。
年を重ねた母のなかから「はつゆき」も「けいとう」も消えていく。消えていくのは言葉だけではなくそのものの色彩であり、一人の人間のなかに蓄えられた「はつゆき」や「けいとう」にまつわる体験である。生まれて成長して老いてゆく時間のなかではつゆきの色、けいとうの色をはじめさまざまなものの色が心身に溜まり、さらなる時間の経過とともにいくつかの色が抜け落ちてゆく。この歌を読むと人間の心身はたしかに色彩の入れ物なのだという気持ちになる。何千色、何万色の色彩を抱えて、また取り落として年をとる。
この一首に読者として長くとどまってしまうのは、そうして老いた母と自身との顔の位置が独特だからなのだろう。一読者の個人的感触からすると母と自身は向き合っていない。向き合うことで発生する時間の流動への抵抗がない。母も自身も何か同じ方向に顔をむけているような感じと言えばいいだろうか。老いた母とまだ老いていないわたし、ではなく、もろともに時間の流動に晒されるものとしての意識が二人の顔を同じ方向にむけているし、母の記憶から剥がれた「はつゆき、けいとう」を拾い集めるような機敏さもこの一首のみに関して言えばない。剥がれてゆくものの落下を少しのさびしさを含みながら陶然と眺めているような印象を持つ。「失った言葉の分だけその色も母から消える」まで握られていた力が「はつゆき、けいとう」でふっと抜ける。個人の力が途方もない時間の量に溶けていくのを見るようである。その光景が不思議と美しいもののようにも感じられてついつい長くとどまってしまう。
長崎のシイラ横たう 金色の巨体は日暮れ誰にも買われず
