山中千瀬『死なない猫を継ぐ』
この猫は生身の猫であってもいいし、記憶のなかにだけいる猫であってもいいのだと思う。いずれにしても猫との距離は何かの拍子に縮むようなことはなく、離れていく一方である。猫のいる地点から遠ざかる方向に歩いているのか、流されているのか定かではないけれど、遠ざかるほかに選択肢のない世界の出来事、という感触がこの歌にはたしかにある。その距離も数十メートルとか数百メートルというものではなく「光年」という言葉がふさわしいほどはるか彼方だと感じるのは猫のいる地点を表すのに「地上」という近距離ではほぼ意味をなさない言葉が使われていることによる。ある地点を示すために「地上」が用いられ十分に意味をなす距離を考えれば、惑星間ほどのスケールになるのではないかという感じがする。
それでもまだ猫が見えている。正確に言えばそれは猫ではなくなってもう光になってしまったものが見えている。もう光になってしまったものが、まだ光っている。猫が猫のまま、はてしない距離のなかを残ることはできない。この猫は、ある時点で猫であることをやめ光に変容することで視界に残る道を選んだのだと思う。残るというのは結局そうした変容を受け入れることで達成されるものであり、たとえば化石は生物が石になることで残り、追憶は現実がイメージに変化することで残る。不動の猫の、不動のまま行われた光になるという捨て身を思ってこちらの胸は絞られる。一方でもう光になってしまったその光をまだ猫だと感受しながら見ている者がいる。何の関係もない第三者からすれば猫か光かどちらかひとつとしてしか存在しえないものが、振り返ることをしつづけた者との関係のなかでのみ猫であり光であるものとして存在することができるようになるのだ、ということにもう一度胸が絞られるのである。
おそらくこの「まだ光ってる」はこの先もほとんど永遠のように「まだ光ってる」を続けていくのではないか。そうでなければこの猫の捨て身が浮かばれない。どれだけの距離がひらいたとしても光はそのぶんを伸び続けていくはずである。
じいちゃんの帽子コレクションからひとつ永遠にいただいたニット帽
