しずかだ 白桃に刃を入れながら誰の無念を生きているのか

『とてもしずかな心臓ふたつ』村上きわみ

生きているとそれほど無念だと感じることがない。ゲーム機の抽選のように、外れても外れても繰り返しやってきてしまうチャンスについ飛びついてしまう、そういった欲望が生きている間には巨大に感じられて悩ましい。期待することを止められず、忘れられない。あの服かわいかったから買っておけばよかったかなあ、という後悔も、いずれ来年には別の服への欲望にすりかえられている。

無念、ときいて思い浮かぶのは、切られ役のこぼす台詞のような状況である。おそらくつどの後悔よりもはるかに大きな、生涯でそう数度も訪れない心境のことが無念とよばれている。ふつうの後悔が減衰、あるいは再度亢進する速度と、無念という感情がたどる経緯はけっこう異なるように感じられる。無念だ、と感じた次の瞬間には、もうその感情は世にはないのかもしれない。それでいながらかなりの割合で、人は生きているあいだに何かの契機によって、無念を感じることがあるのかもしれない。大きく、まれで、しかも普遍であるもの。

いま刃の入ってゆくさなか、この白桃はただ一つの果実である。白桃はがんらいイメージだ。前にも書いたけれど、桃とは夢の象徴で、味、香り、パッケージというものが他のなによりも人をうっとりとさせる。しかし、この歌の桃はむしろ、ただここにしかないことで意味を発揮している。ここにしかない桃が、冷えた果汁を滴らせながら、まさに刃を受け入れつつある。光景に対して、くっきりとした意味がうまれている。

そのときこみあげているのは、これまで人が背負ってきた無念さである。生涯に幾度もないはずで、それなのに代わり映えのない。「誰の無念」と書いてあるが、これが定かでない以上、歌から導かれる答えは「誰の無念でもない」……となるはずである。「無念」という感情は核が強いわりに少し輪郭がふよふよとしているし、追体験をする機会もとぼしいので、具体性は伴わない。色とりどりの感情というよりはなんらかの概念に近い。だからこそこのとき、人という集団に対する観点、まなざしがうまれる。ただ一つの桃を比較対象として、人から人へのつながりのようなものが、いっそうフォーカスされる。しかも、このとき「人」と呼ばれるものはこの世にあるか否かをとわない。誰かの無念は、いったんこの世から失われたものであっても、生きている別のだれかの生に対してふたたび宿り、生き直される。ある種の転生であって、しかも十分に実現されている。部分的な生の一片かもしれないが、無念というもっとも強い感傷は、それが世に連綿と繋がれていくことで、この静かなシンクにあってほのかな希望のようにも見えている。字足らずの初句切れは、衝撃であると同時に喪失感もうんでいる。一文字だけ足りない静けさを思い浮かべながら、私の中にも、作者とのつながりがあることを願いたい。

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