其のひとの髪しろき冬、よかつたと思ふにいたる名はなんだらう

光森裕樹『山椒魚が飛んだ日』

連作「其のひとを」は次の一首からはじまる。

 

みごもりを誰にも告げぬ冬の日にかんむりわしをふたり仰ぎつ

 

みごもりを歌にしながら、しんとした緊張がはりつめている。よろこびは当然あったのだろうけれど、一首のどこを探してもそのよろこびが見当たらない。その代わりにあるのが開かれた緊張感というか、暗すぎない緊張感というか、そういうものだと感じる。連作のなかには「妊娠中期の手術」「高齢出産」「新型出生前診断」といった言葉が点在していてこうした事情が緊張感につながっているのだと思いつつ、もっと根源的な「人が人を産むこと」に対峙している緊張感でもあるのだろうという気がする。わたしには子を持つという経験がないので憶測でしかものを言えないのだが、子を持つこと、自分たちの手に負えない未来を生み出すことはほんとうに怖ろしいことだろうと思う。

そうしたなかで出生前に「其のひと」の名を考えている。まだいない子を真剣に思うとき人はどうやってバランスを取るのだろうか。靄に手を伸ばして掴もうとするような時間である。生まれたとき、それからともに過ごす年月だけではなく、自分たちがいなくなった先の未来、「其のひと」が年老いた日のことまで凝視して、そして決して見定めることのできないなかに名づけることの決断がある。そこに親の側のさまざまな願いや期待が入り混じってゆくのだけれど、「よかつたと思ふにいたる名はなんだらう」の「よかつた」はシンプルであるがゆえに思惑の複雑さが濾過されてゆくまでの凝視した時間の長さが存分に感じられる結論だ、という気配がひしひしとする。名前は誰にもあって生きているうちは誰をも縛りつづけるものであるのと同時にある面では誰をも支えつづけていくものでもあるのだとあらためて考えさせられる。

「思ふにいたる」にもやはり長い未来の時間の「其のひと」の紆余曲折が含まれているだろう。計り知れない喜怒哀楽の繰り返しの果てに「よかつたと思ふにいた」る「其のひと」固有の名はどんなものだったろうか。

 

其のひとが屈みこむ秋、胸そこの枯れ葉に火を打つ名はなんだらう

 

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