『あぢさゐだつたらあぢさゐの中』渡辺松男
短歌には定型という制約に先んじて、使っている言葉がどこまでも抽象であるという難しさがつきまとっている。文章で書かれる場合に、「あれ、取ってきて」と「塩、取ってきて」との間には本質的な違いがない。私はいま目の前に〈この塩〉を持ってきて、これこそがとってきてほしい塩であると見せることができない。「塩」にはあらゆる余白と具体とが詰め込まれ、見知った具体たちがネットワークを結んでいる、なんだか書かれるものが具体物であるほどに、その概念は一点に集約するというより、網のように広がり高速に何かを交わす空間となって、読む側の感性を特定の位置にとらえているのではないかと感じられる。
掲出歌では書き出しに比べ、結句との落差が思いのほか大きいと思ったのである。この人はどこに座りたいのか。詩的なラインに沿って予想されたのは、冬の星座とか、雲みたいなもの、そういった抽象度の高いイメージであったはずだ。結句では「からすの古巣」であると種明かしされている。実物を見たことがなくても、はとやつばめの巣は身近であるから、そこからの想像でからすの巣もある程度予想がつく。それは枝を寄せ集めた飾り気のない鳥の住み処であり、なあんだ、と思いながらも胸にふとかすかな痛みがよぎる。「古巣」というたった一語で、その巣はすでに使われていないことがわかる。なんの変哲もない枝の寄せ集めに、情がこもりはじめる。この「からす」もまた、目にしたのだかしていないのだかわからない、イメージと実体のはざまをさまよっている黒い残像であるが、巣の底に体温だけを残しているような手触りがある。枝のとがった硬い部分や、敷き詰められながらときどき空いた隙間から見えている空の青さに実体がともないはじめる。こういった連想を支えるのは「高々と」という一語である。最初に書いたように、この高さを文章では示すことができない。〈これくらいの弁当箱〉と書いたとして、その大きさはいま目にできない。十メートルとでも書けば特定が可能であるが、「高々と」までならばその高さに正解が与えられないのである。読む人の印象の中には、さまざまな高さのさまざまな空があり、マグリットの絵のように(と少しだけ比喩の補助を使いたくなる)、いくつもからすの巣が浮いているような感じがする。「からすの古巣」という名詞からいくつもの巣のイメージがどのようにもありそうであること、それが人の想像の力によるものであること。この歌では想像力が感情を支持している。巣にいたはずのからすの姿かたちは、この歌に直接は書かれない。からすの不在が「きみ」への喪失感にもつながり胸が痛い。さらには「からすの古巣」のイメージもまた、これほど多くの人が無数に想像することができるのに「きみ」がそこに加わっていないという現実を知らしめているようで悲しい。けれど吹き抜ける風のなかに、あの場所へ座ってみたい、という望みが加われば、どこか濡羽色のかがやきにも見えはしないか。
