染野太朗『人魚』
「君」は裸体なのではないかと思う。パジャマなり寝巻なりを着ているのだとすれば、布に覆われた身体についていきなり「痛点」を意識しそこから一首をはじめるのは難しい。裸だとしてもふつう視線はなかなか痛点にフォーカスできるものではないと思うのだがどうか。また、共に夜を過ごした相手の顔だったり、手だったりといった部分に焦点を合わせることなく全体としての身体を把握しながら、しかし痛点というきわめて小さな部分には焦点が合っている。これはふつうの目ではない。右目と左目まったく機能の異なる両目で身体を見ているような不思議な感覚がある。パジャマを着た寝姿だとしてもそのパジャマは無化していて、まなざしの先にあるのはやはり裸体であるだろう。
「からだ横たえて君が寝ているもう朝なのに」というところだけを見れば、ほのぼのとしているようにも感じるのだが、そのほのぼのとした叙述の出発点が痛点のひしめきにあることをどう引き受ければいいのかつい立ち止まってしまう。
端的に言ってしまえば暴力の匂いがするのだけれど、それは表には現れることのない暴力というか、一人の人間のからだに痛点がひしめいている、というそのフォーカス自体にすでに含まれている暴力性と「君」のからだにまぎれなく痛点がひしめいていることの事実性が釣り合っている。身体へのまなざしが含み持つ暴力性はその「君」の身体そのものによって抑止されている。そうしたじりじりとした均衡のなかにほのぼのとした寝姿が横たわっている。別の言葉で言えば、一人のまなざしによって変容した光景と無機的写真的な光景とがどちらかに偏ることなく双方歌に乗っているような気がするのである。双方乗っていてなおかつ混然一体とはならずしかしひとつの世界として歌に表れている。よく言われるような情と景の組み合わせによる立体感ではなく、景と景であるのにもかかわらず不穏と安息が抱き合い得も言われぬ空気が流れている。人と人がいる光景を詠むにあたって重要な示唆を与えてくれる一首であると思う。
ぐいぐいと引っ張るのだが掃除機がこっちに来ない これは孤独だ
