『死なない猫を継ぐ』山中千瀬
先日の内山さんの評から影響を受けたものかもしれないが、『死なない猫を継ぐ』の一冊を通してみて、この作者の作品に備わる遠近法が特有で、豊饒なものを見出せるのではないかと感じた。原風景や故郷といったルーツにさかのぼるモチーフがよくみられる一方、それらは均等な一点透視でない置かれ方で作品にさまざまに現れる、過去と未来をつなぐような、時空をくぐっているようななまなましい体感。現在は書かれればすでに過去であり、そうなのにどこかだれかの未来予知でもあるような。読むたびに発見があってなかなか取り上げる歌を決めるのに迷った。
鳩は近づけば飛び立つものである。鳩の群れに迫っていくと、だんだん集団が不穏に拡散しはじめ、首の動きがせわしくなり、鳩vs自身の距離がある閾値を超えたところで、すべての鳩はいっせいに飛びたってしまうものである。この人は傷つきたい、と思いながら鳩の群れに迫ってゆき、鳩の側がさきに逃げ出した。鳩が去ればそれなりに傷つくことを予想しながら、もっと派手に傷つけてほしいという感想が残った。鳩に対して「飛んではいけない」と書いてあるが、本当に禁じられているのは、「傷つきたい」という願望に共鳴することなのだろうか。「傷」をもとめて鳩の群れに混ざろうとしたところ、鳩のほうがその願いを受け入れなかった。鳩はこの人を別に傷つけたくはない。しかしこの人から見たとき、鳩はまるで目の前から消え失せてしまったようで、「もっと傷つきたい」という願いがかなえられない喪失感だけがごろごろと心に残った。その心残りを別のものへ変換するべく、飛んではいけない、とおもむろにつぶやいた発語がひとつの詩となっている。いまこの歌を読み解きながら、鳩の気持ちも、「あたし」の気持ちも納得できるような気がする。私もまたこの人に傷ついてほしくないが、いっぽうで私の中にもある「もっと傷つきたい」という感傷がおそろしく根深いことに気づいている。この「傷つきたい」に、なすすべなくひどく共鳴している。こういったナイーブな感傷を抱え持ち寄って暮らしているのが人間の実態だと思うが、日ごろ表にはまるで出ていないものを、望遠鏡のような目で見つめている歌だと思う。それは表に出ないからなのか、または過去だから遠いのか、ともかく時間と空間を大きくとらえているから、こういう視点を作品に置くことが可能なのだと思う。話は変わるけれど、とつぜん旅に出たくなる気持ち、海を見たくなる気持ちがそういうことだったのか、と唐突に理解するような感覚もあった。旅の歌が良い。どこまでが旅でなく、どこからが旅なんだろう。
鳥と風いっしょに飛んでゆくを見る その奥で金色の日が落ちる
