馬場めぐみ『無数を振り切っていけ』
あぶないからよしなさい、というわたしの声がする。「もし」なので台風が来るかどうかはこの時点では不明であり、折り畳み傘を開いて風に乗って空までいくことは不可能であるからほんとうに実行に移すことがないのは一読理解するのだけれど、それでももしかしたら空まで飛んでいってしまうのではないかという気もしてしまう。荒唐無稽な空想なのにその隙間から真実味がちらちらと見え隠れするのは、定型と表現とに齟齬があるからなのだと思う。定型のなかに溺れていくようなブレスの多さがあって、「もし」「あした」「台風」「来たら」とひと言ひと言にブレスが入る。本来なら助詞が補われることでブレスが消失するのだが、そういった操作がされずブレスの多さもあいまってカタコトのような印象を残している。もしこれが散文だったら、もう少し長い息になったのではないかと思いつつ、この定型と表現との齟齬がむしろ一首の彫りを深くしているのだと感じるのである。なんなら、空までいくことはなくても赤い折り畳み傘を開くところまではいってしまいかねないふわふわとした現実感が、ひとつひとつの息のみじかさによって生まれている。
これは不用意とか無防備と言い換えることができるものかもしれない。けれども、短歌にとって不用意さや無防備さは必ずしも悪なのではなくむしろある場面では必要なものである。それは生きること自体に拭いつくすことのできない不用意さや無防備さがまじっていることと似ている。あぶないからよしなさい、ということを冒頭に書いたが、生きることそのものが何よりもあぶないことである。それなのに、誰も生きることについては「あぶないからよしなさい」とは言わない。そのあぶなさを台風に傘を開くという具体に落とし込み、知らずしらずのうちに生のバランスのそもそもの不安定さを読み手に体感させている。定型と表現との齟齬を逆手にとってそうした体感を生み出すこの歌のアクロバティックなありようは、一面的な技術とはまた別のところで、定型への向き合いかたを考えるよすがとなるものなのかもしれない、と思ったりするのである。
身を投げる無数の窓を振り切って生き延びて今晴れた公園
