『陽だまりの椅子』中霜宮子
この場合の「ときめき」の手前には、「ことば」を知っているか知らないかという分岐が挟まれているのだろう。文章に知らない言葉が出てきたとき、その意味を推測するか、調べるということをする。未知であった「ことば」が既知のものに変わったとき、そう感想が浮かばないこともあるかもしれないが、発見のよろこびとか、新しい概念に触れたような新鮮さにとりつかれることもまた多いのではないか。未知にふれてからの、さまざまなよろこびのひとつに「ときめき」があることをこの歌が教えている。
または知っている「ことば」でも、調べている中で「ときめき」を覚えることもある。これは文章を使って創作をしている人の特権といってもよいかもしれない。ほかの言葉に置き換えてみる、そのため調べるといった地道な活動のなかにふいに「ときめき」が見つかる。定型の中にことばが落ちてくるのを待つ。それまでは詩にはならなかったことばが手元をすり抜けていくのを、何度も、何度も見届けながら。もう宝探しといってもよいような行いが、正直私は一番好きである。
この歌でおもしろいのは、そういった覚えのある体感が「雪原」という表現の発見により、コントラストが高い状態でするどく再現されていることである。このときじっさいに発見されたのは別のことばであったに違いない。その表現がどうなったのか、ときめいたことばは別の機会にぶじ使われたのかはわからない。ただ、とっさのよろこびが、積雪のなかへ思わず飛び込んだような気持ちであらわされた。さいきんは印刷の技術がかわったのかあまり見なくなった気がするけれど(まだあるかもですが)、広告紙はとてもつるつるしていて、片面印刷の反対側は青光りするほど白かった。ペン先がすべるし、インクや鉛筆ははじく、字や絵を描くには不向きであるほうの紙。あの凍ったような冷たい手触りが「雪原」であると気づいたのはこれがはじめてである。おそらく誰も入ったことのない雪の野がある。そこに書き込まれ、雪原に足跡をつけたのは、よろこびやときめきといった一瞬の意欲である。これは前向きになる歌であるとどうじに、同じ連作にはこういった側面も記されている。
うつくしく秋のことなど書きてゐつあるいは遺書とならむ日のため
かなしみてあれば悲しみの音になる南部の鈴をゆふべは愛す
狙はれしは獣か人か雪原にひとつの罠のかけられてあり
どの作品も流れるようでうつくしい。ああ、ことばとは奥が深いなあと、首筋に氷をあてておきたくなる。きょうも心底暑い。
