鳥籠を抱えて銀座線に乗る 雲の模様の青い風呂敷

竹内亮『タルト・タタンと炭酸水』

 

この鳥籠のなかに鳥はいるのか、いないのか。風呂敷に覆われた鳥籠だということを思えば、これは電車の人混みの動きや音に驚かないような配慮だということになって、なかに鳥がいる。とも取れるし、同じように風呂敷を起点に考えて、むきだしの鳥籠を都心の地下鉄車内に持ち込んで奇異の目に晒されることのためらいがそうさせたのだとも取れる。そうなるとなかに鳥はいない。文字通りに読めば、抱えているのは鳥籠であって鳥籠に入った鳥ではないので、なかに鳥はいないのだけれども、「抱え」るという動詞の選択からは大切そうなニュアンスが漂っていてなんだか鳥がいる気がしてくる。この歌に鳥はいないようで、いて、いるようで、いない。とてもむずむずしつつ、しかしそれ以外の部分はやたらと場面の輪郭がくっきりしている。「鳥籠を抱えて銀座線に乗る」という行為に目玉が肉迫し、「雲の模様の青い風呂敷」という事物に目玉が肉迫していて、乗客の混雑や地下鉄の走行音や車内アナウンスというようなものは一切合切意識の外である。それによって異様に純度の高い鳥籠と銀座線と風呂敷が見えてくる。

「鳥籠」と「銀座線」は傍から見れば二物衝突にも思われるけれど、そうしたイメージ上の構図は現実生活の一場面という一首の背景によってほぐされ衝突未遂となって衝撃ではない淡々とした一場面のなんとなくの違和感となって表れているはずである。鳥籠も銀座線も風呂敷も意識的に、無理やりに集合させられたわけではなく、日常のなかでのそれぞれの自然な理路に沿いながらこのタイミングでたまたま運命が重なったもの同士である。鳥籠には鳥籠の来歴が、銀座線には銀座線の来歴が、風呂敷には風呂敷の来歴がまったく別々のものとしてあったはずだが、それらがはるかな紆余曲折を経てここに邂逅することはほぼ奇跡であると言ってしまいたくなる。そしてその奇跡を磨き込んで輝かせず、いわば原石のまま転がしておく。一首の端から端まで貫かれた躍動感の弱さ、うねりの少なさが輝くことのない(奥底に輝きを秘めた)奇跡を実現しているのだと思う。歌の中心に陣取っているのはいるのかいないのか分からない鳥なのだが、このもやもやとした中心部分がこの歌の奇跡の性質(必然性奇跡ではなく偶然性奇跡)をことのほか強めに暗示している、と言ったら言い過ぎだろうか。

 

涼やかな朝の地面に静止する誰かが置いたような青柿

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です