『日本語中級1クラス』米倉歩
日本語がとりわけ難しい、というのは俗説であって、どの言語にもそれぞれの難しさは伴っているという考え方がよく言われている。学術的な見地はそうであって、ただこの人のように二十年以上という歳月をこの「日本語」を教えながら過ごしていると、難しいものは難しいし、言語を習得する難しさのほかにも、だれもが国という枠組みで暮らしていること、個人では避けようのない災害や戦争、教師と生徒という勾配のあいだがらなど、さまざまな現場のようすが深く真に迫ったかたちで表現されるのだなと興味深く読んだ。
たまたま日本語という接点で出会うとき、この人は教師であり、生徒は教わる立場になる。日本語という科目でないならば、国籍は違うかもしれないが単にどの人ともお互いが人間であるだけなのだ、というあたりまえの事実は、この歌集でつねに響いている。いっぽうで、それでは何の違いもないのかといえば、男女の差もあり、地域の事情もにじんでいるようだ。教える、ということの実態はそういうことなのだなと感じた。教師と生徒という勾配、すなわち知識に代表されるさまざまな格差を直視し受け止めるところから、〈教えること〉は始まるのだろう。その生々しさをときにつらいとさえ感じるが、ともかく、ひとつの知識体系を獲得することはたいへんな困難である。その困難さを幾度も乗り越えてきたことは、この世界の生徒として、ときに教師として、あえなく忘れてしまっているだけなのだ。
漢字という表意文字の面白さはあらためて言うまでもない。複数の読み方と意味があること、少しのパーツの違いでまったく別の意味を持ちうることなどが、たぶん面白いし不可解だととらえられている。奇術師を通り過ぎて「ペテン師」と呼ばれているところに、教わる側の親しみや、教える側の自虐も込められている。このとき教えた「新しい漢字」がどういったものかわからないが、普通読んでいる以上に、不可思議でユニークなものに見えてくる。歌集に何度か登場する「ビジネス日本語」という聞きなれない表現がある。「ビジネス英語」の対義語として理解するのだが、言語の中にビジネス用も創作用もあるものか、と疑問がふつふつと湧いてくる。この人もそういう意味合いで「ビジネス日本語」を多用している。一度きりの発見でなく持続的に、歌集全体を通して言葉へのまなざしがまっさらに更新されていく感覚が新鮮であった。
つまるところ言葉であれば質より量 八重九重に練習つづく
鬼門なり「あげます」「くれます」「もらいます」胡乱な奴よと思う「くれます」
