米を磨ぐお釜のなかに指はあり指輪もありて一心に磨ぐ

樋󠄀口智子『幾つかは星』

 

歌を読んでいて思わず二度見してしまうことがたまにある。一度読んで捉えきれずに二度三度読み直すというのとは違って、瞬間的にえっ、となって目がその場をうろうろしながらとまどうことがあるのだが、掲出歌はわたしにとってそうした歌のひとつだった。当然のこととして指は手についていて、手は手首から腕に至って腕は胴体に接続し、その先にはひとりの人間がいる。指輪も指にはめられた状態で存在しているから最終的にはやはりひとりの人間につながるものである。が、この一首から導かれる映像では米だけでなく指も指輪もどこにもつながることのない単独の存在としてお釜のなかで撹拌されている。わたしが見ている映像のとおりに調理が進めば、米と指と指輪の混ぜご飯ができあがるはずである。米を磨いでいる指、またその指にはめられた指輪がいつのまにやら磨がれるほうの立場に身を置いている。いや、そんなはずはなく指(と指輪)は磨ぐ側、米だけが磨がれる側だと理性が修正しにかかるのを上書きして混ぜご飯の下ごしらえとしての映像がやってくるのである。

生活というものを思うとき、食事の支度は枝葉の部分であるだろう。生活という幹があって、幹を中心に洗濯だったり掃除だったりといった枝葉がそこについてくる。炊事ももちろん枝葉になるべきものだろう。なんとなくそんなイメージでいたのだけれど、この歌の状況はまったく異なっている。ご飯の支度、米を磨ぐことがとてつもなく巨大でそのなかに生活や人生が混入し溺れたように翻弄されている。お釜のなかで食材のようになった指や指輪(おそらく結婚指輪だろう)が米と一緒に転がされながらじゃぶじゃぶとして磨がれていく。ほんとうは生活という幹などなくそのときそのときの家事だけがあって、生活や人生はそのときの巨大なひとつの家事に飲み込まれていくのだ、と歌が言っている。「米を磨ぐ」ではじまって「一心に磨ぐ」で終わる歌のかたちは炊事以外のものが付け入る隙をいっさい与えていない。歌の内容から言っても歌のかたちから言っても炊事のなかにすべてがある。

 

限られた周波数のみ聞きとれるラジオのような日々に雪解ゆきげ

 

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